第4章 零下の温度
下唇を噛みしめた。画面の中、西園寺さんの首筋に刻まれた痕が、まだそこにある。
昨夜、発表会が終わった後のことだ。自分がようやく生死の境をくぐり抜けたその夜に、あの人は別の女のベッドへ向かった。
画面の中では、舞がまだ楽しそうに西園寺さんと話している。まるでそちらが本当の家族であるかのように。
画面の外で、紗奈はゆっくりと目を閉じた。
再び目を開いたとき、瞳の奥に残っていた最後の揺らぎは跡形もなく消えていた。
噛んでいた下唇を離す。舌先が滲んだ傷口に触れた。
もう誰かに自分の価値を証明する必要はない。誰かの愛を乞う必要も、ない。
――
通話画面が途切れ、スマートフォンの画面が暗転した。
紗奈はベッドの端に、さっきと同じ姿勢で座っている。暗くなった画面に、血の気を失った自分の顔が映り込んでいる。
隣にいた舞が振り返り、紗奈の顔を一瞥した。虚ろで生気のない表情を見て、舞は眉をひそめた。
「ママ、なんか怖い」(※幼児の未熟な認識)
それだけ言うと、舞は小さなタオルケットを抱えてベッドから飛び降り、一度も振り返らずに部屋を出ていった。
紗奈は小さく唇を動かした。音は出なかった。
視線がベッドサイドのテーブルへ向かう。そこには家族写真のフレームが置かれている。一条様の腕が紗奈の肩を抱き、二人の子供がカメラに向かって無邪気に笑っている。四人の顔を、陽光が明るく照らしている。
紗奈はその写真をじっと見つめ続けた。
やがて、ゆっくりと手を伸ばす。フレームを伏せ、机の面に押し当てた。
――数日後。
東京都内におけるX-24ウイルスの感染拡大は止まらない。本邸西翼のテレビは数時間おきに死者数を更新している。アナウンサーの声は平坦で冷静だ。注意して聞かなければ、その奥にある微かな震えには気づかない。
紗奈は洗面台の端に、消毒液、アルコール綿、N95マスク、体温計を等間隔に並べた。一日三回、子供たちの体温を測る。希釈したアルコール液でドアノブと散らばったおもちゃを丹念に拭き上げ、舞の漢方薬を時間帯ごとに小さな紙コップへ分けた。
のあは窓際にへばりつき、ガラスに指で円を描いている。
「キックスケーターで遊びたい」と、さっきからぼやいている。
「緊急事態宣言が出てるから、外に出られないの」
紗奈の声に抑揚はない。
のあは唇を尖らせ、額をドンと窓ガラスに打ち付けた。鈍い音が響く。それ以上口を開くことはなかったが、目には明らかな反抗の色が浮かんでいた。
カーペットでは、舞が絵本をドミノのように次々と倒している。
「イチゴのショートケーキは?」と舞が顔を上げた。「美咲ねえちゃんはいつも、上に丸ごとイチゴが乗ったやつ買ってくれるのに」(※幼児の未熟な認識)
紗奈はキッチンに立ち、医学書をめくっていた。舞の症状と照らし合わせながら薬の配合量を調整する。
やがて薬が煎じ上がった。茶褐色の液体から、独特の苦い匂いが立ち上る。
舞はすぐに鼻をしかめ、体を後ろへ引いた。
「飲んで。熱が下がるから」
舞は器を睨みつけ、首を横に振った。「飲みたくない」
「舞」
「美咲ねえちゃんがね、こんな苦いの飲まなくていいって言ってたよ。はちみつレモン飲んで汗かけば治るって」(※幼児の未熟な認識)
紗奈の指先がわずかに強張る。器を数センチ前に押し出した。
「それは間違いよ」
次の瞬間、舞が両手で器を突き飛ばした。
茶褐色の液体がテーブルに広がり、濃い染みを作る。
舞の目がみるみるうちに赤く染まった。
「ママなんか嫌い! パパのところに行く! 美咲ねえちゃんのところに行く!」(※幼児の未熟な認識)
物音を聞きつけたのあが部屋から駆け出してきた。入り口で立ち止まり、惨状を一瞥する。
「美咲ねえちゃんはいつも好きなもの買ってくれる」のあの声は無邪気だ。「ママより全然いいよ」(※幼児の未熟な認識)
紗奈は立ち尽くした。テーブルに広がった薬液の染み。
もう弁解はしない。静かに布巾を手に取り、テーブルを拭き始めた。
やがて、温めたホットミルクをローテーブルに置く。
のあはカーペットに座り込み、背を向けたままキッズスマートウォッチを操作している。一条様の連絡先を探しているようだ。舞はソファの隅で膝を抱え、赤く腫れた目を伏せている。
「牛乳、飲んで」
のあは振り向かない。つま先でローテーブルの脚を軽く蹴った。カップが揺れ、白い液体が数滴こぼれる。
「いらない」
「のあ」
「ママが外に出さないから悪いんだ。ママさえいなければ、パパと美咲ねえちゃんと一緒にいられたのに」(※幼児の未熟な認識)
紗奈の呼吸が止まった。
のあが振り返る。その目に悪意はない。涙が光っている。
「ママ、なんで美咲ねえちゃんじゃないの? 会いたいよ」(※幼児の未熟な認識)
ソファの隅から舞が顔を上げた。
目には賛同の色。
紗奈は動けない。体が固まったように、その場に立ち尽くす。
窓の外から、救急車の「ピーポーピーポー」という音が遠く聞こえてくる。X-24ウイルスは目に見えない。だが確実に人を蝕む。今この瞬間、本邸西翼のリビングに立つ紗奈を侵している寒気は、そのどんなウイルスよりも深くて致命的だった。
沈黙が降りた。
あまりにも長い沈黙に、のあが不安げな視線を舞に向ける。舞も泣き止んでいた。二人は紗奈の顔を伺っている。いつもなら泣くか、怒鳴るか、折れるかするはずなのに。
紗奈は何もしない。
ただそこに立ち尽くし、やがて、瞳の奥に残っていた最後の光がふっと消えた。
「わかった」
窓際に歩み寄り、スマートフォンを手に取る。連絡先一覧から一条様の名前を呼び出した。発信音が響く。
「二人とも、自分の荷物をまとめなさい」
舞とのあが同時に目を丸くした。小さな顔に戸惑いが広がる。
泣かれると思っていた。怒鳴られると思っていた。あるいはいつものように、なだめられると思っていた。こんなにあっさり頷かれるとは、思っていなかった。
のあがローテーブルの脚をそっと蹴り、また引っ込めた。
リビングには、発信音だけが響いている。
今度ばかりは、ママは本当に……折れてしまったのかもしれない。
紗奈は二人を見ない。視線は鉛色の夜空へ向けたまま、スマートフォンを耳に押し当てている。
「パパに電話する」
声が低く沈む。一語一語、絞り出すように。
「迎えに来てもらうから」
