紹介
夫に「データ取れるまで死ね」と隔離室に閉じ込められた日、子供は「美咲お姉ちゃん」と私の肩を叩いていた。
母が30年否定され続けたウイルス核心を握り、自分の静脈に薬を押し込む。
生還した私が言ったのは「一条蓮、お前の財閥の未来は、私の心拍数に縛られてるのよ」——。
。。。
一条家の奥様を7年演じた。味噌汁を子供に吐き捨てられ、夫の17通の電話に出てもらえず、最期はX-24の隔離室で「役立たず」と捨てられた。
窓の外でヘリが飛ぶ音を聞きながら、私は母の遺した細いインターフェースを自分の腕に刺した。
彼女が学界で笑われた「不変ターゲット」が、私の血液の中で光ってることを、あの男は知らない。
2期感染から生還した私は、記者会見で笑った。
「心配しないで。私はまだ死ねないから」
その後はこうだ。
国立研究所でワクチンを作り、シンポジウムで母の名前を呼び、美咲がぶっかけたケーキをスマホで録音して、千代お祖母様が倒れた夜に夫が折った離婚届をポケットから出させた。
「戻れ」と言う彼に、波形グラフを突きつけただけ。
愛も謝罪もいらない。
私の引く波形が天井を突き抜けるまで、お前たちの「正義」を、私のペースで塗り替えてやるだけ。
チャプター 1
午前三時、東京都世田谷区、一条家プライベート別荘。
別荘地下の臨時隔離病棟は煌々と明るく、墓場のように静まり返っていた。
白石紗奈は壁に背を預けていた。白衣には汚れが染みついている。顔は紅潮し、唇はチアノーゼで変色していた。ウイルスによる頭痛が、視界をたびたび暗転させた。
かつて彼女は東京大学医学部ウイルス学科、最年少の逸材だった。
七年前、博士号取得後はWHOへ赴任するはずだった。しかし彼女はその道を手放し、一条蓮の妻となることを選んだ。
実験室で費やしたあの日々は今、記憶の中だけに残っていた。
腕の中に、四歳ののあをきつく抱えていた。隣のベッドでは舞が半昏睡状態に陥り、呼吸器に繋がれていた。
紗奈は意識を保ちながら、力の入らない指でノートパソコンに打ち込んだ。
「X-24ウイルス。厚生労働省の致死率推計18%。変異株は既存のすべてのワクチン防護を突破、免疫逃避の疑いあり。」
瞼が重かった。目を閉じるわけにはいかなかった。眠れば、二度と目が覚めないかもしれない。
のあは身を縮めていた。高熱で意識が朦朧としながらも、本能的に紗奈の手を避け、かすれた声で繰り返した。
「美咲ねえちゃん……美咲ねえちゃんがいい……」(※幼児の未熟な認識)
紗奈の手が宙で止まった。
隣のベッドで昏睡する舞に目を向けた。四歳の舞も、意識を失う前まで同じ名前を呼び続けていた。
西園寺美咲。
両親が一条家の医療事故の罪を被ったことで、特別な待遇を受けて引き取られた「恩人の遺児」。
おもちゃと甘いもので、二人の子どもの心を掴むことが得意だった。
のあはかつて美咲からの輸入菓子一箱のために、かかりつけ医の前で紗奈のスープを拒んだ。舞は美咲と夜更かしした翌朝、「美咲ねえちゃんがお母さんだったらよかった」と口にした。(※幼児の未熟な認識)
のあの青白い顔を見つめ、紗奈は視線を下げた。
この子たちの心に宿るのが自分ではないと、わかっていた。それでも、母としての気持ちは少しも欠けていなかった。
突然、合金扉が鋭い音を立て、ゆっくりと開いた。
先頭の男は完全武装で、その大柄な体躯が隣の小柄な人影をしっかりと包み込むように護っていた。
一条様が足を止め、背後から医療官二名と護衛が入室した。
最高等級の防護服越しでも、フェイスシールドの奥の双眸は温度を一切欠いていた。
西園寺美咲は一条様の傍らに控え、か弱い様子で、ほぼ一条様に支えられながら入ってきた。
紗奈は妻として、二人がこうして並ぶ姿を見慣れていた。
医療官が素早くデータを確認し、声を潜めて報告した。「一条様、舞お嬢様の容態は非常に危険です。のあ様は現在安定期です。奥様は……X-24の感染がすでに第二期に移行しており、感染リスクが極めて高い状況です。」
その視線は、終始扉の外に留まっていた。
紗奈は手を伸ばした。針跡だらけの指先で、一条様の防護服の袖口を掴んだ。
声を出す力はもう残っていなかった。ただその手だけで、置いていかないでくれと伝えようとした。
一条様の視線が彼女の顔の上を滑り、通り過ぎた。
静かに、払った。
「子どもたちをヘリに乗せろ。」フェイスシールド越しの声はくぐもって冷たかった。「あの女はここに置いていけ。」
「蓮——」喉の奥から絞り出した、かすれた声だった。
「お前はもう足手まといだ。」
遮った。声に波紋はなかった。
「死ぬなら、死ぬ前の身体データの転送が終わってから死ね。それがお前の今唯一の価値だ。」
護衛が前に出て、紗奈の腕からのあを抱き上げた。のあが叫んだ。「お母さん!」
紗奈の手が空を掴んだまま、動かなかった。
西園寺美咲は一条様の背後に立っていた。その目に何かが閃いたが、瞬く間に直視できないほど怯えたような表情に切り替わった。
一条様が踵を返した。扉の外に踏み出す一歩手前で足を止め、左手首を上げ、端末の赤いボタンを押した。振り返らなかった。
「室内の酸素濃度を維持しろ。自動投薬装置を手動に切り替え、最大量で持続投与。脳波データに途絶があれば即座に報告しろ。」
医療官が一瞬ためらった。「一条様、お言葉ですが、薬剤の備蓄は全員が軽井沢まで戻るには不足しております。西園寺さんの側でも酸素サポートが必要で、もし——」
「黙れ。」
合金扉が閉まり始めた。
紗奈は全力で扉の隙間へ身を投げた。指先が縁に食い込んだ。
一条様は止まらなかった。足取りに一分の迷いもなかった。しかし医療官には見えていた——一条様が時計の上に押しつけた指の関節が、力をかけすぎて白くなっていた。
扉の隙間から、美咲の細い吐息が漏れた。「一条様、もう見ないで……可哀想すぎますわ……」
一条様は答えず、ヘリへと向かう足を止めなかった。
扉が完全に閉じると、世界は沈黙した。換気システムの低い呼気音と、紗奈の胸腔から漏れる荒い息遣いだけが残った。
紗奈は床に崩れ落ちた。口元に赤い線がにじんだ。手首のスマートウォッチの受信端末が微かな青い光を点滅させていた——一条様の命令が、今まさに実行されていた。
口の端を引いた。喉から短く詰まった息が漏れた。咳とも何ともつかない音だった。
七年。行き着いた先は一切の躊躇のない切り捨てだった。
一条蓮、あなたは私に死んでほしくないのではない。感染進行データの記録が間に合わなくなることを恐れているだけだ。
紗奈は鎖骨に手を伸ばし、ずっと肌身離さず着けていたネックレスを引きちぎった。
精巧なペンダントトップの外殻を力ずくで外すと、細い端子が現れた。
——母が遺した研究草稿の圧縮データキャリアだ。
そこに収められているのは、学界に一度も認められなかった仮説だった。RNAウイルスには極めて安定した保存的サイトが存在し、理論上は汎用ターゲットサイトとして機能しうる——実証されれば、現行の抗ウイルス療法の基礎的枠組みを書き換えることになる。学界はこれを否定してきた。三十年前も否定し、三十年後の今も否定し続けている。
だが紗奈には、母が正しいとわかっていた。
この病棟が完全封鎖された七十二時間、彼女は自分の身体を実験台にした。高熱の中で記録を続け、感染が第二期に移行したその瞬間、自分の病理データの中に、あの保存的サイトが実在する証拠を見た。
母の仮説は、正しかった。
震える手で、その細い端子を携帯型ポンプのバックアップデータポートへ強引に接続した。画面が一度点滅し、エラーが表示された。歯を食いしばり、爪でカバーをこじ開け、ラインを接点に押し当てた。データストリームが激しく跳動し、その断片的な配列を未知の薬液へと変換して、静脈へと押し込んでいく。
跳動する波形を見つめながら、紗奈の目の奥から何かが引いていった。刃のような鋭さが、その代わりに宿った。
「一条蓮……。」
夜空で、ヘリのローターが風圧を切り裂き、低く重い轟音を響かせていた。
薄暗い機内で、一条様は深く背もたれに身を預けていた。手元の画面には、紗奈のバイタルサインを示す緑の光点が、微かに跳動し続けていた。
目を閉じた。膝の上に置かれた両手が、今は抑えようもなく震えていた。
最新チャプター
#110 第一百一十章 あの人が合鍵を持っていた
最終更新: 9/21/2026#109 第一百零九章 母子離心
最終更新: 9/20/2026#108 第一百零八章 ママが嫌い
最終更新: 9/19/2026#107 第一百零七章 子供を迎えに
最終更新: 9/18/2026#106 第一百零六章 小泉敏江
最終更新: 9/17/2026#105 第一百零五章 小泉敏江
最終更新: 9/16/2026#104 第一百零四章 病室の来客
最終更新: 9/15/2026#103 第一百零三章 深夜の傍らで
最終更新: 9/14/2026#102 第一百零二章 世論の下
最終更新: 9/12/2026#101 第一百零一章 研究室へ戻る
最終更新: 9/10/2026
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