第五章 取引
スマートフォンの画面に「一条蓮」の名前が灯っていた。舞とのあは寝室の入り口に立ち、乾いた涙の跡を残したまま、母親の背中を緊張した目で見つめていた。
紗奈の目は画面に向いたままだった。
——かつて、この番号に電話をかけるたびに、一条様は繋がった瞬間、柔らかな声で問いかけてくれた。「紗奈? どうした?」
今は、呼び出し音が長く鳴り続けてから、ようやく繋がった。
「……用か?」
一条様の声が届いた。わずかな苛立ちをにじませていた。背後に女の柔らかな声がかすかに聞こえたが、一条様が無造作に「少し待て」と言って遮った。
紗奈はもう、自分に言い訳をする理由を見つけられなかった。映像の中の痕は、一条様と繋がっている。
彼女は内側の怒りを押さえながら言った。「舞とのあが家にいたくないと言っています。今から車を手配して西園寺のお屋敷にお送りします。一条様か西園寺さんにお受け取りいただけますか」
「……夜中に何をやっているんだ。」
受話器越しに届いたため息は、手のかかる部下をあしらうときの響きだった。
「本当にそんなことをしたら、危機管理室が深夜に動かなければならない。いい加減にしてくれ。」
その言葉を聞いて、紗奈は手の中のスマートフォンを強く握った。
彼の目に映る自分は、「一条家に面倒をかける」だけの存在なのだと、改めて思い知った。
結婚式の日、一条様は大勢の前で彼女の手を握り、厳かに言った。「今日から、君は一条紗奈だ。」あのとき彼女は、それが二人の距離を縮めるものだと思っていた。今になって気づく——あれは、一条家の妻という職に就いたにすぎなかった。
「子供たちが会いたがっています。」紗奈の気持ちは少しずつ落ち着いていった。「舞の熱がまだ下がりません。のあは西園寺さんに傍にいてほしいと言っています。お二人の気持ちをそのままお伝えしているだけです。」
「なら、ちゃんと面倒を見ろ。余計なことをするな。」
一条様の口調には責めるような色があった。まるで彼女を、子供の世話係の一人として扱っているようだった。
紗奈はもう堪えられなかった。
「西園寺さんは、お菓子やおもちゃで子供たちの気を引いています。」
声には抑えたような、くぐもった響きがあった。
「先日、のあがアレルギーで一晩中熱を出したとき、舞は子供部屋に閉じ込められて床に倒れていました——西園寺さんが気にかけているのは、子供たちの安全ではなく、一条様に叱られるかどうかだけです。」
紗奈は少し間を置いた。
「それでも子供たちは西園寺さんをよく信頼している。私という母親より、ずっと。」
「……あの人が子供たちに与える影響は、毒のようなものです。中毒になる。そして取り返しがつかない。」
電話の向こうが、しばらく沈黙した。
かつて舞が高熱を出した夜、一条様は子供を抱いて雨の夜道へ飛び出した。のあが初めて歩いたとき、両腕を広げて笑っていた。
——あのとき、自分はそれを愛だと思っていた。
今はわかる。あれは、一条家の後継者としての責任感が、たまたまそのかたちをとっていただけにすぎなかった。
「……紗奈。」
一条様の声が低く落ちた。警告の色をにじませながら。
「また美咲に当たっているのか。」
「事実を申し上げています。」紗奈の口調は揺るがなかった。「昨晩、のあが西園寺さんとビデオ通話しているとき、彼女の首筋に痕が見えました。一条様はずっと彼女と一緒にいた。」
少し間を置いた。
「ウイルスが広がったあの夜、舞の熱は下がりませんでした。一条様に十七回電話をかけました。一度も繋がりませんでした。」
「お前——」
電話の向こうが、沈黙した。
見透かされたとき、反論しようとして言葉が出てこないときの、あの沈黙だった。
数秒後、一条様の声が戻ってきた。押し殺した苛立ちをにじませながら。「……それが何だというんだ。」
「もういいです。」紗奈の声にわずかな疲労が滲んだ。「ただ一つだけ聞かせてください。この七年間、一度でも本当に私を愛していたことがありましたか。」
「いくつになっても、子供じみたことを言う。」
一条様の声が冷えた。
「何をするつもりか知らないが、私と美咲の間には何もない。勝手な憶測はやめてくれ——」
「何もない。」紗奈はその言葉をそのまま繰り返した。声にかすかな皮肉が混じった。「ええ、お二人の間にあるのは『恩返し』だけですね。わかっています。」
「紗奈。」
一条様の声には、はっきりとした苛立ちがあった。駄々をこねる子供をあしらうときの、あの響きだった。
「何が不満なんだ。欲しいものがあるなら直接言え。遠回りはするな。」
紗奈は答えなかった。
電話の向こうの息遣いに耳を澄ませ、背後に女の笑い声がかすかに漂っては消えていくのを聞いていた。
「用がないなら、先に切るぞ。」
一条様の声はさらに苛立ちを帯びた。
「明日も会議がある。いい加減——」
「離婚したいと思います。」
