第2章 反抗?

美玲は半開きになった口のまま、呆然と阿部岳斗を見つめた。

「ありえない……ありえない……」

岩崎春菜が自分の偽動画をでっち上げ、人生を丸ごと壊したというのに。そんな彼女が「本物の検査結果」など、どうして用意できるはずがある。

「岳斗、お願い……」

美玲は、もう何度目かわからないほど惨めに縋りついた。

「一度だけでいいから、私を信じて。岩崎春菜を信じないで。あの人は偽動画を――検査の結果だって……」

パン、と乾いた音。

美玲は一瞬きょとんとしてから、自分がまた頬を打たれたのだと理解した。今までよりもずっと重い一撃。半分の頬が熱く腫れ、片耳がぷつりと塞がったように、音が消える。

「春菜が俺を騙す、と?」

阿部岳斗は目を細め、彼女の身体から離れた。

服を整えながら、さっきまでの怒りの気配だけをきれいに引っ込める。表情がすっと抜け落ち、残ったのは冷えた無関心――だからこそ、余計に恐ろしい。

ネクタイを直す、その仕草だけで背筋が粟立った。

美玲は震えながら後ずさる。けれど逃げる余地など、最初から与えられていない。

「それ」

バーテンダーが両手で差し出したのは、犬用の鎖だった。阿部岳斗はそれを受け取り、ためらいなく美玲の首に括りつける。

そしてまた、彼女を持ち上げ――物でも捨てるように床へ放った。

美玲は反射的に身を丸め、腹を庇う。みっともなく膝と肘をついた姿勢で、片手を腹に添え、もう片方で床を支える。

首輪がぎゅっと締まり、息が詰まった。視界が一瞬で黒く染まり、耳の中には自分の心臓の音だけがどくどくと響く。

殺されるのだろうか。

どれほどの時間が過ぎたのか。阿部岳斗の手がふっと緩む。美玲は大きく息を吸い込み、反射的に前へ逃げようとするが、すぐに鎖が再び喉を締め上げた。

「這えよ」

背後から、嘲る声。

「みんなに見せてやれ。お前は、誰にでも跨られるメス犬だってな」

硬い革靴が、美玲の脚の付け根を容赦なく蹴り上げる。身体が前へ弾かれ、崩れるように這わされる。床を擦るたびに痛みが走り、息は細く途切れた。

美玲は口を開けたが、声にならない。

周囲では無数のスマホが向けられ、笑い声と野次が飛ぶ。下卑た言葉が降り注ぎ、視線が刺さる。

これが、生き地獄。

その瞬間、彼女は腹の中の子ごと、この世界から消えてしまいたいと――本気で思った。

そうして目を閉じ、腹を抱いたまま床にうずくまる。

「抵抗か?」

動かない彼女に苛立ったのか、阿部岳斗が前腕に力を込め、鎖を強く引いた。

美玲の身体は引きずり上げられ、再び膝と手をつかされる。首が折れそうで、呼吸も止まりかける。それでも阿部岳斗は、楽に死なせるつもりなどなかった。死にかけたところで空気を流し込み、また締める。残酷な加減。

「岳斗……」

喉の奥から掠れた音が漏れる。何度も息を奪われ、目の縁が赤く染まっていた。美玲は必死に顔を上げ、残った力をかき集めて――酒棚へと身を投げた。

ガシャァン――

瓶がいくつも床に落ち、割れた。鋭い破片が目の前に散る。あそこに倒れ込みさえすれば、終わる。

だが次の瞬間、髪を掴む強い力が彼女を引き戻した。

阿部岳斗が頭髪ごと引き上げる。

「死にたい? 美玲、まだ死なせねえ」

山のような絶望が、ずしりと彼女を押し潰す。死ぬ資格すら、与えられないのか。

阿部岳斗は後ろ首を掴み、床へ押しつけるように跪かせた。膝と脛が、割れたガラスと冷たい酒の上に押し込まれ、じわっと血が滲む。

「わかったか?」

頭上から落ちてくるのは、怒りを押し殺した声。

「頭を下げて詫びろ。俺が死なせないって言ってんのに、お前に死ぬ権利があると思うな」

新しい傷の痛みで全身が震えた――その直後、別の痛みが腹の底を貫いた。

下腹が周期的に縮み、引きつる。温かい液体が下から溢れ出す。

美玲は無意識に手を伸ばし、触れた感覚に凍りついた。妊娠八か月。なのに、どうして――。

この仕打ちがなければ、子は早産になどならなかった。

病院に行かなければ、腹の中で死んでしまう。

絶望の底で、それでも母性が勝った。死ねない。子を生かさなければ。

「阿部岳斗!」

美玲は振り返り、掠れた声を振り絞る。

「破水した……産まれるの! 私、悪かった、私が悪かった! お願い、病院に行かせて……子だけでも無事に産ませて。そうしたら、何でもする……!」

だが彼の顔に浮かんだのは、嘲笑だけだった。

「無事に産む? お前にその資格があるか?」

「そんなに演じたいなら、ここで産め」

美玲は言葉を失った。

バーで、産め――?

医師には胎位が悪いと言われていた。自然分娩は危険で、病院でなければ母子ともに危ないと。

「岳斗、お願い……」

懇願する力すら、もう残っていない。

激痛が突き上げ、悲鳴が漏れた。本能のままに身を仰向けにし、脚を開き、力んでしまう。背中にもガラスが刺さり、血が滲んだ。

周囲では、耐えきれずに目を逸らす者が出始め、男たちの輪が少しずつ薄くなる。

子宮口が開いていく感覚。五、七、十――。羊水は尽きかけ、体力も尽きかける。それなのに、子は下りてこない。

「助けて……」

また、熱いものがどっと溢れた。

空気が鉄臭い。血の匂いだ。

阿部岳斗の目の底に、驚きが走るのが見えた。

血が、まるで栓を抜いたように流れ続ける。周囲が反射的に後退し、誰かが叫んだ。

「大出血だ!」

――結局、ここで死ぬのか。

霞む意識の中、白衣の医師が二人、駆け込んできた。床に膝をつき、処置を始める。

「阿部さん、胎位が悪い。このままでは危険です。今すぐ帝王切開を――」

「やれ」

阿部岳斗の声は、底冷えしていた。まるで地獄から這い上がってきたみたいに。

「ここでやれ」

「阿部さん……?」医師が目を見開く。「ここには麻酔も、機器も――」

「麻酔はいらねえ。そのまま切れ」

「そんな……そんな痛み、産婦が持ちません! 死にます!」医師はきっぱりと拒んだ。

だが次の瞬間、阿部岳斗の拳が医師の顔に叩き込まれた。

「やるか、俺がお前を切るか。選べ」

医師の顔が強張り、口を噤む。

床で息も絶え絶えの美玲は、ほんの少し意識を取り戻し、かすれ声で呟いた。

「岳斗……どうして……先生にまで……」

囁きに等しい声。それでも、彼には届いた。

怒りが再び燃え上がる。

阿部岳斗は美玲の首を掴み、持ち上げた。脚の間から血が滝のように落ち、床に広がっていく。

「医者が可哀想か? 男なら誰でもいいのか。恥知らずのビッチが」

彼は美玲を引きずるようにして、ステージの中央へ向かった。

「そんなに男を誘うのが好きなら、吊ってやるよ。みんなに見せてやる」

両手首が縄で締め上げられ、吊り上げられる。美玲の身体が宙に浮いた。下では血が溜まり、水たまりのようになっていく。

全身の痛みが、肉を裂く。魂だけが抜け出しかけているような感覚で――こんな状態でも、なぜまだ生きているのかと、ぼんやり思った。

その次の瞬間、腹の奥を掻き回すような激痛が走り、美玲はわずかに息を吸った。まるで消えかけた火が一瞬だけ燃え上がるように。

そして、奇跡みたいに。

子が、彼女の脚の間から滑り落ち――

どさり、と。

血の海の上に落ちた。

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