第3章 深いなあ
「……私の、赤ちゃん……」
宙吊りにされたままの美玲は、必死に身をよじって我が子を見ようとした。
どうして泣かないの。落ちた拍子に――壊れてしまったの?
子への心配が、全身を焼く痛みも疲労も押し潰した。美玲は歯を食いしばって縄を引きちぎろうと暴れ、ついに、カキン、と嫌な音がした。
手首が外れた。骨が軋んだ。激痛に視界が白く弾け、それでも縄の輪から抜け落ちる。どさり、と床へ。
痛みに構う余裕などない。美玲は這い寄り、赤ちゃんをかき抱いた。
「ベビー、ベビー……」
胸の中でそっと揺らす。けれど小さな頭はうなだれたまま、ぴくりとも動かない。
答えはもうわかっているのに、美玲は信じられず、震える声で繰り返した。
「ベビー……」
鼓動がない。生まれた瞬間から――死産だった。
ほんの十分ほど前まで、お腹の中で小さな足が蹴る感触を、確かに感じていたのに。
「ベビー、起きて……ベビー……ママだよ……」
声は嗚咽に変わり、すぐに抑えの利かない号泣へ落ちた。胸の奥が引き裂かれるみたいで、息ができないほどに泣き崩れた、その頭に――ごつん、と重い衝撃。
阿部岳斗だった。投げつけられたシェイカー用の金属カップが、美玲の額に当たったのだ。ガラスじゃないだけ、まだマシだった。
「縁起悪い」
数歩離れた場所で、彼は床の血溜まりから目を逸らしたまま吐き捨てる。
「何を泣いてやがる」
「阿部岳斗、私たちの子が死んだのよ! それでも人間なの……?」
泣くことさえ許さないのか。
「父親のいない雑種だろ。死んだならそれでいい!」
声を荒らげた阿部岳斗に、美玲は一瞬で泣く力すら奪われた。
もう――この子と一緒に、どこかへ行きたい。
「阿部岳斗、この子はあなたの子よ。父親のいない雑種なんかじゃない……あなたの血……」
「もう一回言ってみろ」
怒りが空気を固める。阿部岳斗はウイスキーの瓶を掴み、テーブルの縁で叩き割った。次の瞬間、大股で美玲の前まで来る。
鋭い瓶の破片が、ためらいなく美玲の首元へ押し込まれた。喉を貫く。熱いものが一気に溢れ、床へ滴った。
――だが、動脈でも気管でもない。
「この雑種が俺の子だなんて、もう一度でも言ったら……」
阿部岳斗は美玲を射殺すように見下ろし、低く言い切った。
「男を何人も並ばせて、おまえを抱かせる。孕ませて、堕ろさせて、また孕ませる」
美玲の唇が震える。失血で身体の芯まで冷え、視界がゆっくり暗くなっていく。
首の痛みが激しくて、いつ瓶が引き抜かれたのかもわからない。膝をついたまま、ふっと腕の中が軽くなった。
「……赤ちゃん――!」
咄嗟に手を伸ばすと、誰かが美玲の手首をやさしく包んだ。次いで、甘い香りのする上着が肩に掛けられる。
「美玲さん……そんなに悲しまないで。赤ちゃんのことは、私がちゃんと手配するから。あなたは休んで」
気遣う声音。柔らかい言葉。
なのに、美玲の肌にぶわっと鳥肌が立った。
岩崎春菜――。
美玲は怒れる獣のように跳ね起き、岩崎春菜の腕を掴む。もう片方の手は首へ――絞め殺すつもりで伸ばした。
「あなたよ。あなたが殺したんでしょう! それで今さら連れていくの!?」
「きゃっ――!」
死にかけに見えた美玲にこんな力が残っているとは思わなかったのだろう。岩崎春菜は悲鳴を上げて身を引いた。
「姉ちゃん、違うの! 私は……ずっと抱いてたら、姉ちゃんが余計につらいと思って……悪気なんて!」
その拍子に、抱えていた死産児が――どさり、と床へ落ちた。
美玲が拾おうと身を乗り出した瞬間、太い手が腕を乱暴に掴み上げる。
阿部岳斗が、美玲をゴミ袋でも持ち上げるように引き摺り起こした。
「恩知らずが」
そのまま外へ放り投げる。
美玲の身体が宙を横切り、後頭部が――ゴンッ、とカウンターに叩きつけられた。
そこで、意識が途切れた。
どれほど経ったのか。美玲は少しずつ目を開けた。
痛みは全身に居座っている。けれど血の匂いは消え、代わりに濃いアルコール臭が鼻を刺した。下半身は縫われ、身体中の傷も、応急処置だけはされているらしい。
――ただし。
美玲は裸のままだった。
そして首、両手、両足には、ずしりと重い鉄鎖。
身体を起こすと、鎖がじゃらじゃら鳴る。そこでようやく気づいた。
自分は――犬小屋の檻に入れられている。
檻は狭く、腰を伸ばせない。跪いて這うしかない。
絶望が、また喉元までせり上がる。まだ足りないのか。阿部岳斗は、どこまで私を壊せば気が済むの。赤ちゃんは死んだ。これ以上の罰なんて――。
「んっ……あなた……深い……」
不意に、近くから女の甘い喘ぎ声が聞こえた。
美玲は反射的に視線を向ける。犬小屋は一つの部屋の隅に置かれていて、そこから大きなベッドが見えた。岩崎春菜が男に絡みつき、夢中になったような顔で身を揺らしている。
心臓がぎゅっと掴まれる。
あの男……阿部――?
ベッドのカーテン越しに見えた横顔は、阿部岳斗によく似ていた。だがよく見れば、目元にあの鋭さがない。輪郭もどこか甘い。
阿部岳斗の従弟――二宮文彦。パーティーで見かけたことがある。
岩崎春菜は、阿部岳斗を愛しているんじゃなかったの?
「……私、もう……」
声が高くなり、やがて二人は同時に息を乱した。
美玲は目を閉じる。胃の奥がむかつき、吐き気がせり上がった。
それでも、気絶したふりはできない。さっき鎖が鳴った。もう気づかれている。
「あなた、こっち来て。このメス犬、見て」
岩崎春菜の艶めいた声。彼女はガウンを羽織り、裸足のまま檻の前に来る。
「伏せたら勝手にお尻が上がるの。誰かに抱いてほしいって待ってるみたい」
二宮文彦も笑い混じりに言う。
「脚まであんなに開いてさ。でも下はひどいな。どこの男が触るんだよ」
侮辱が、石みたいに投げつけられる。美玲は掌に爪を食い込ませ、二人を引き裂いてやりたい衝動を噛み殺した。
鎖で固定されている以上、別の姿勢になれない。脚を閉じようとしても、鎖が短すぎて無理だった。
岩崎春菜は口元を押さえ、くすくす笑う。
「ひどいこと言わないで。産んだばかりで、まだ戻ってないんだもの。ほら、胸。大きいのに垂れてて……授乳中の豚みたい。摘まんだら、まだ出るかもね」
二宮文彦は興味を隠さず、檻へ手を伸ばした。
「春菜は優しいな。ちゃんと搾ってやろうってわけか」
「やめろ! あんたたち、最低……!」
美玲は掠れ声で叫び、必死に反対側へ身を引いた。鎖ががちゃがちゃ鳴り、手首の皮膚が擦れて血が滲む。
「逃げんなって」
二宮文彦の指が、今にも触れそうになった、そのとき。
扉の向こうから、氷のように冷たい声が落ちてきた。
「――何をしてる」
阿部岳斗。
ほとんど同時に、岩崎春菜が泣き声を作った。
「ただ姉ちゃんの体が心配で様子を見に来ただけなの……。そしたら姉ちゃん、つらいって二宮文彦の手を無理やり引っ張って、胸を揉めって……嫌がったら畜生って罵って……」
美玲は顔面から血の気が引いた。
「違う……」
阿部岳斗の周囲の空気が、滴り落ちるほど冷える。毒蛇がゆっくり背を這い上がってくるような圧で、美玲の呼吸が詰まった。
彼は背を向け、部下へ淡々と命じる。
「そんなに飢えてるなら、発情した犬を二匹連れてこい」
声は平坦で、底だけが暗い。
「本物の畜生ってのを見せてやる」
