第7章 無様な姿

美玲は痛みに耐えきれず、そのまま完全に意識を失った。

次に目を覚ましたときも、彼女は冷たい金属の壁に囲まれた地下室に横たわっていた。

身体の奥は縫合の糸が何本も切れてしまったらしく、滲む体液と血が混ざって、鼻をつく生臭さが漂っている。

「カチャ」

鉄の扉の小窓が開いた。

見張り役のボディーガードが、酸っぱくなった飯の皿を雑に放り投げてよこす。

「食えよ、ビッチ」

美玲は動かなかった。

ボディーガードは冷えた目で彼女を見下ろし、淡々と言った。

「まだ知らねえのか。田舎から来たあんたのばあさん、心臓やってさ。医者いわく、今夜は越えられねえってよ。市立病院の集中治療室で、もう待ってる状態だ」

虚ろだった美玲の瞳が、がくんと揺れた。

「……おばあちゃん」

この世界で、たったひとりの家族。

母は身を投げ、子どもも失った。もし、ばあちゃんまで――。

どこから湧いたのか分からない力で、美玲は鉄の扉に縋りつき、両手で格子を掴んだ。

「お願い……! おばあちゃんに、最後に一回だけ会わせて……! お願い!」

床に膝をつき、痛みを無視して必死に頭を下げる。

「最後に会えたら、戻ってきて、何だってする……! どうか、情けを……!」

男は岩崎春菜の手の者だ。命令はすでに受けている。

「……まあ、いいだろ。そんなに惨めならな」

ボディーガードは困ったふりをして肩をすくめた。

「二時間だけ、こっそり出してやる。阿部さんにバレたら、こっちの首が飛ぶんだぞ」

美玲は涙をこぼしながら何度も頷いた。

「ありがとうございます……! 必ず時間どおり戻ります!」

扉が開き、古びた服一式と、水のボトルが差し出される。

「着替えろ。水も飲め。今のお前、途中で倒れたら洒落にならねえ」

美玲には警戒する余裕なんてなかった。

会いたい。ただそれだけだった。

震える手でキャップをひねり、喉を鳴らしながら水を飲み干していく。

ボディーガードの口元に浮かんだ、毒々しい笑みなど目に入らない。

その水には、闇の市場で出回る強力な薬が混ぜられていた。

……

市立病院。集中治療室の前。

美玲は壊れた身体を引きずり、廊下に辿り着いた。腹の傷はまだ滲み、服の一部が赤黒く染まっている。

足を一歩出すたびに、胸の奥まで痛みが突き抜ける。脚を閉じたまま、歪な歩き方で進むしかなかった。

「……おばあちゃん」

部屋の表示を見つけた瞬間、涙が溢れ、よろけながら駆け寄る。

――ドン。

取っ手に触れる前に、乱暴に突き飛ばされた。

「近寄るな! 恥知らずの女が、どのツラ下げて来た!」

押したのは叔父だった。傍には親戚が数人、冷え切った顔で立っている。

母が亡くなってから、江口の家は美玲を家の恥として切り捨てていた。

「おじさん……お願い、ばあちゃんに会わせて。ほんの一目だけでいいの……」

床に転がり、泣きながら叔父の足に縋りつく。

「一目? ふざけるな。ばあちゃんはな、お前がバーで男に弄ばれてる動画を見て、ショックで発作起こしたんだよ!」

叔父は美玲の肩を蹴り、唾を吐くように言い放つ。

「家の顔をどれだけ潰したと思ってんだ。消えろ。ばあちゃんの病室を穢すな!」

美玲は廊下の隅へ追いやられた。

それでも立ち去れず、冷たい床に膝をついたまま、病室の方角へ視線を向けて、ただ涙を落とし続ける。

そのとき。

飲まされた水に仕込まれていた薬が、身体の奥で火花を散らした。

下腹から異様な熱が一気に駆け上がり、全身へ回る。息が荒くなり、視界が揺れ、輪郭が滲んでいく。

熱い。

苦しい。

胸の内が、空っぽで――。

「……ん……」

意味のない声が喉から漏れ、指先が自分の襟元を掴んだ。

理性が、するりと崩れていく。

頭の中を埋め尽くすのは、ただひとつの渇き。

「……やだ、熱い……つらい……」

美玲は床の上で身をよじり、服を乱暴に引き裂きはじめた。

「ビリッ」

外套が開き、素肌が覗く。

廊下にいた看護師や見舞いの家族が息を呑んだ。

「ちょっと、何して――」

「ねえ、あの人……」

ざわめきが広がり、誰かがスマホを構える気配がする。

けれど美玲の耳には、もう届かない。

薬が見せる幻に呑まれ、彼女は自分が別の場所にいると錯覚した。視線は虚ろで、身体だけが勝手に動く。

その場の空気が凍りついた瞬間。

廊下の向こうから、氷の刃みたいな怒声が飛んだ。

「何してる。どけ」

強引に人だかりが割られる。

ボディーガードが人だかりを押し退け、一本の道を作った。

現れた男の視線が、床に崩れた女へ落ちる。

阿部岳斗だった。

額の血管が浮き、目が怒りで暗く燃えている。

――ふざけるな。

こんな場所で、こんな騒ぎを。

阿部岳斗は大股で近づき、美玲の髪を掴んで上半身を無理やり起こした。

「……痛……」

美玲は首を反らされ、涙で濡れた瞳で男を見上げる。

薬のせいで、それが誰かも分からない。

ただ、男の体温と匂いに引き寄せられるように、無意識に寄り添ってしまう。

「……男の人……お願い……」

阿部岳斗は美玲の喉元を掴み、そのまま冷たい壁へ押しつけた。

「美玲。お前――ここがどこだと思ってる」

低い声は怒りで震えていた。

「病院だぞ」

壁に響く息遣いの中、阿部岳斗の視線は彼女の乱れた服と血の滲む傷へ落ち、さらに苛立ちが濃くなる。

「こんな状態で、何をしようとしてる」

美玲は苦しげに喉を鳴らしながらも、まともに答えられない。ただ熱に浮かされ、縋りつくように身体を震わせた。

阿部岳斗は、冷たいままの目で美玲を見下ろし、吐き捨てるように言った。

「……そんなに自分を壊したいのか」

そして、低く続ける。

「ここで続きを望むなら――その代わり、責任は取れよ」

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