第1章
「式は中止だ。衣奈が――やばいことになった。今すぐ様子を見に行く」
控室で、久遠成安は血の気の引いた顔のまま、せわしなく出口へ向かった。だが、相沢愛音がスーツの裾をつかんで引き留める。
「成安……お願い。式が終わるまで、いてくれない?」
必死に懇願する彼女の瞳の奥には、怯えが滲んでいた。
開式まで、あと三十分。ホールはすでに招待客で満席だ。こんなタイミングで新郎が消えれば、相沢愛音はどうやってこの場を収拾すればいいのか――想像するだけでぞっとする。
久遠成安はその哀願を無視し、乱暴に彼女を突き飛ばした。露骨な嫌悪を浮かべて吐き捨てる。
「衣奈は、俺たちが結婚するって知って手首切ったんだぞ。それでもお前は、式のことしか考えてないのか。どんだけ冷血なんだよ」
相沢愛音はよろめいて後退し、腰がドレッサーの角にぶつかった。ずきり、と鋭い痛みが走る。
顔色を失い、涙を滲ませて呟く。
「でも……」
「でも、じゃねえ!」
久遠成安は苛立ちきって遮った。瞳は氷のように冷たい。
「今日、衣奈に何かあったら……俺は一生、お前を許さない」
そう言い捨てると、振り返りもせず出ていった。
「成安……成安!」
追いかけて廊下へ飛び出したときには、すでにそこはがらんとしていた。久遠成安の姿は影も形もない。
崩れ落ちそうだった表情が、ふっと止まる。相沢愛音はゆっくり背筋を伸ばし、顔を整えた。ついさっき新郎に捨てられたなど、誰にも気づかれないほど平静に。
彼女は隣の控室へ向かい、扉越しに呼びかける。
「四宮さん。入ってもよろしいですか」
二秒ほど沈黙が落ちてから、低い声が返ってきた。
「……入れ」
相沢愛音が扉を押すと、窓辺にひとつの背中があった。黒のスーツに身を包み、纏う気品は揺るがない。少し青白い横顔、整った目鼻立ち。だが何より、その場の空気を支配する圧がある。
相沢愛音は黙って数秒、鑑賞するように視線を走らせ、それから本題へ入った。
「四宮さん。覚悟はできましたか。式が始まったら、もう後戻りはできませんよ」
四宮礼司は表情ひとつ変えない。
「当然だ」
彼はふっと目を上げ、淡く相沢愛音を見た。
「ただ、ひとつ。相沢さんに聞いておきたいことがある」
相沢愛音は協力者としての体裁を崩さず、うなずく。
「どうぞ。答えられる範囲なら」
四宮礼司は車椅子を静かに前へ進めた。鋭い視線が、彼女の内側まで解体するかのように射抜く。
「なぜ、障害のある男と結婚する」
「式は一時中止にしただけだ。君が望むなら、いくらでも仕切り直せるはずだろう」
相沢愛音は、薄く笑った。
「私、厄介事に巻き込まれるのと、人前で恥をかくのが、この世でいちばん嫌いなんです」
彼女の計画では――よほどのことがなければ、久遠成安と結婚し、それを足がかりに家の干渉から抜け出して、好きなデザインの道へ進むはずだった。
けれど、計画は途中で狂った。
三日前。相沢愛音が久遠成安に服を届けに会社へ行ったとき、偶然、オフィスで彼が友人に愚痴っているのを聞いてしまったのだ。
「相沢愛音は顔だけはいいけどさ、性格が堅くて鈍いし、つまんなすぎ。マジでダルい」
かつて甘い言葉をいくつも囁いた男が、今は露骨な嫌悪で吐き捨てていた。
「衣奈のためじゃなきゃ、あんなのと結婚するわけないだろ」
相沢愛音はドアの前で立ち尽くし、頭を殴られたみたいに視界が白くなった。
乗り込んで問い詰めようと足を踏み出した、その瞬間――彼女は無表情のまま踵を返し、外へ出た。
汚れたものを、拾い直す必要はない。
会社を出て、街角でしばらく茫然と立ち尽くしたあと、相沢愛音はきっぱりと結婚相談サイトを開き、数あるプロフィールの中から四宮礼司を選んだ。
電話をかけ、単刀直入に告げる。
「四宮さん。結婚相手を探しているって、本当ですか」
そこから先は、拍子抜けするほど早かった。
四宮礼司は家の年長者に縁談を急かされ、適当な相手でやり過ごしたい。一方の相沢愛音は、式の新郎を差し替える必要がある。利害は一致し、話はまとまった。
むしろ、久遠成安をどう処理するか考えていたのに、向こうが勝手に身を引いたのだから都合がいい。
四宮礼司はそれ以上踏み込まず、淡々と言った。
「後悔しないといい」
「もちろん」
相沢愛音は細部を確認し終えると、控室を出た。
それから三十分後。式が始まる。
相沢愛音は結婚行進曲の流れる中、ひとりで宴会場の扉の外に立った。
妹の相沢衣奈が自殺騒ぎを起こしたせいで、両親も慌てて会場を出ている。
――そのとき。
「相沢愛音! あんた、何やってんのよ!」
罵声とともに誰かが横から突進してきた。先頭に立つ久遠の母が、相沢愛音の腕を乱暴につかむ。
「成安が式は中止だって言ったでしょ! あんた、何のつもり!」
久遠の父も続いて現れ、眉間に皺を寄せて言い放つ。
「今すぐ止めてこい。成安を怒らせて追い払ったのはお前だって言って、客にはちゃんと謝れ」
相沢愛音は鼻で笑った。相変わらず、厚かましい。
付き合っていた頃から久遠家の両親は、自分たちを「顔の利く立派な家」とでも思っているのか、相沢愛音を見下してばかりだった。
成安の身の回りの世話を押しつけ、家の使用人みたいに扱う。やらせておいて少しでも気に入らなければ、文句と叱責。
以前の彼女は、久遠成安が好きだったし、彼を足場に自由を得たかった。だから耐えた。
けれど今日は、もう笑って受け流す気はない。
相沢愛音はゆっくりと視線を上げ、淡々と言った。
「式はもう始まってます。どうして私が止めるんですか」
「それに、久遠成安みたいに誰かに貢いで回るタイプなら……久遠家って、とうに恥ってものを捨てた家だと思ってましたけど」
「……な、何ですって?」
久遠の母は、こんなふうに言い返されたことがないのだろう。顔が怒りで青白くなる。
相沢愛音の目が冷たく細くなる。
「どいてください。今日の式は、あなたたちには関係ありません。これ以上騒ぐなら、警察を呼びます」
久遠の母が甲高くわめいた。
「関係ないですって? この結婚式は――」
言いかけた言葉が途切れた。視線が、横に置かれたポスターへ吸い寄せられたのだ。
そこには、似合いの新郎新婦が写っている。花嫁は相沢愛音。だが、隣の男は――久遠成安ではない。
久遠の母は目を見開き、歯ぎしりするように言った。
「……あんた! 別の男を用意したっていうの!」
相沢愛音は冷笑した。
「笑わせないで。息子が他所の女に貢いでるのを放っておいて、こっちに八つ当たりですか。まったく、親が親なら子も子ですね」
そう言い切ると、彼女は近くのスタッフに声をかけた。
「すみません。私の式を邪魔しようとしている方がいます。対応をお願いします」
今日の会場は耀光ホール。普段から相手にしているのは、金も権力もある客ばかりだ。それに、今日の「当人」からも事前に話が通っている。スタッフはすでに警備員を呼んでいた。
久遠の母は怒りで我を忘れ、手を振り上げた。
「今日こそ、あんたみたいな――」
頬に届く前に、駆けつけた警備員が彼女の腕をつかみ、そのまま引きずっていく。
「相沢愛音! このクズ! うぐっ――!」
喚き散らす罵声は、廊下の奥へ吸い込まれていった。
そして、宴会場の扉が開く。
結婚行進曲が、ふっと音量を上げた。
赤い絨毯の先――光と影の境目に、スーツ姿の男が待っていた。
