第2章
式は滞りなく進んだ。相沢愛音と四宮礼司は誓いを交わし、祝福を受け、すべてが終わったあとに時間を見つけて市役所へ寄り、さっと婚姻届まで出してきた。
婚姻届受理証明書を手にした瞬間、相沢愛音はようやく胸の奥の息を吐く。
久遠家は力がある。相沢家は長年、彼らと縁を結びたがっていた。今回、久遠成安が土壇場で逃げたとはいえ、あとから必ず「もう一度嫁げ」とねじ込んでくるに決まっている。
相沢愛音は、久遠成安とだけは絶対に無理だ。
だから家の支配から抜け出すには、これがいちばん手っ取り早い。ついでに、あの妹がまたまとわりついてくるのも避けられる。
相沢愛音は目を伏せ、車椅子の四宮礼司へ笑みを向けた。
「安心して。これからは同じ舟に乗った夫婦だもの。ちゃんと面倒見るから」
急な話で、彼の素性まで調べる暇はなかった。きっと普通の家庭だろうし、全部片がついたら、数千万でも渡して補償すればいい。
四宮礼司の表情が一瞬だけ止まり、次の瞬間、可笑しそうに息を落とす。
――この俺を? 君が?
彼は答えないまま車椅子を進めた。相沢愛音は肩をすくめ、足早にその背を追う。まあ、信じていないってことね。
二人で車に乗り込んだ。相沢愛音は、礼司が呼んだ車なのだろうと深く考えなかった。
だが車は西山方面へ向かい、並ぶように建つ豪邸の前を通り過ぎて、四宮家の門前で停まった。彼女が問いかけるより早く門が開き、車はそのまま敷地の奥へ――。
やがて本邸の玄関前で停止する。
中から使用人たちが駆け出し、丁重にドアを開けた。
「若様、若奥様」
その呼び名が、相沢愛音の頭をくらりと揺らした。同時に思考が一気に回りだす。四宮礼司、四宮家。つまり――自分の名ばかりの夫は、四宮家の人間……?
心臓がどくん、と跳ねる。
四宮家はH市きっての名門だ。外でどれだけ威張っている連中も、四宮家の前では塵みたいなもの。そして同世代には、とびきりの人物がいる。
若くして辣腕。入社三年で、もともと勢いのあった四宮グループをさらに押し上げた――。
だが半年前、不慮の事故で表舞台から消えた。噂では交通事故で脚を悪くし、そのまま荒れてしまった、と。
目の前の男は、その噂と一致しているはずなのに。
相沢愛音は内心で舌を巻いた。どこが落ちぶれているのか。漂う気配が、そもそも違う。
「……四宮様?」
試すように呼ぶと、四宮礼司は横目で彼女を見た。淡々とした目。
――やっぱり。
相沢愛音の腹の底が、ひやりと沈む。これは、思ったより厄介だ。
四宮礼司も彼女の反応に気づき、わずかに眉を寄せる。驚きすぎだ。自分が四宮家の人間だと知らなかった? いや、そんなはずはない。こちらが外へ出していた情報に、身元を隠した覚えはない。
……きっと、気を引くための芝居だ。
四宮礼司はうっすら苛立ち、口を開きかけた、そのとき――背後から甲高い怒声が飛んできた。
「何が若奥様よ。どこから湧いたの、若奥様なんて!」
影が勢いよく割って入り、手入れの行き届いた顔に、鋭い目が光る。
「礼司、どういうこと? 結婚なんて大事なこと、家に一言もなし? 四宮家は、誰でも入れていい家じゃないのよ!」
その尊大な声に、四宮礼司の眉目が一気に冷えた。
視線が沈む。
「伯母さんが、俺に説教するつもり?」
四宮家の伯母・森田梅子は、びくりと肩を震わせる。勢いが半分ほど萎むが、すぐに言い繕った。
「礼司、伯母さんはあなたのためを思って――。今は昔みたいに動けないんだから、ちゃんと素性の知れた子じゃないと」
そう言いながら、視線は礼司の脚へ落ちる。
押し込めたはずの気勢が、ふたたび持ち上がる。何を怖がる必要がある? いまの四宮礼司は――。
森田梅子は鼻で笑うように言った。
「私の姪の音緒、あの子がいいわ。あなた、この子は今すぐ帰しなさい。今日のことは、なかったことにして」
そして気取った口ぶりのまま続ける。
「明日うちに呼ぶから。まずはお互い知るところから始めなさい」
礼司がどうであれ、祖父が溺愛している以上、遺産は相当落ちる。その金を、自分の手のひらに転がしておきたい。
四宮礼司はその意図を見抜き、目の色が獣じみて暗くなる。
「お前……」
「あなた、本当に四宮の奥様なんですか?」
横から、訝しげな声が割り込んだ。
相沢愛音が礼司の前に半歩出て、首をかしげる。
森田梅子はもともと彼女が気に入らない。さらに面相が歪んだ。
「何、その言い方。私じゃないっていうなら、あなたが四宮の奥様だとでも?」
相沢愛音は眉を上げる。
「だって名乗られなきゃ分からないでしょ。どこから入り込んだのかと思いましたよ、営業のおばさんが。まだ日も落ちてないのに、ここで客引き始めるんだって」
四宮礼司が目を瞬かせ、思わず新妻を見た。
……口が、えぐい。
「なっ――! 何言ってるのよ!」
森田梅子は信じられないという顔のまま、次の瞬間、金切り声を上げて突っ込んでくる。
「その口、引き裂いてやる!」
相沢愛音はくるりと踵を返して逃げる構えになり、ついでに四宮礼司まで連れて行こうとした、そのとき――。
「梅子奥様」
玄関の奥から声が響き、森田梅子の動きが止まった。
執事服の男が出てくる。年の頃は四十代後半から五十前。穏やかながらも、芯のある声だった。
「おじい様より。夜も更けてまいりましたので、皆様お早めにお休みくださいませ」
森田梅子はなおも相沢愛音を睨み、手を出そうとする。
執事は淡く圧を滲ませた。
「梅子奥様。お引き取りくださいませ」
森田梅子は忌々しそうに鼻を鳴らし、しぶしぶ踵を返した。
執事は礼司と相沢愛音へ向き直り、表情を和らげる。
「若様。新居のご用意は整っております。若奥様をご案内くださいませ」
それだけ言うと、彼は余計な干渉をせずに去っていった。
相沢愛音はひそかに違和感を覚える。四宮礼司の結婚なのに、家の者がほとんど出てこない。それどころか、自分が現れたことに誰も大して驚いていない。
……これ、普通?
疑問が渦を巻くが、四宮礼司はもう車椅子を操って屋内へ進んでいる。相沢愛音も慌てて追った。
案内された部屋は、確かに祝儀の飾りつけがされ、ベッドにはペアの部屋着まで置かれていた。
相沢愛音はそれを見て、じわりと遅れて恥ずかしさがこみ上げる。
「あの……私、床で寝ようか」
結婚初日から別室など無理だろう。でも、見知らぬ男と同じベッドで眠る覚悟もできていない。
四宮礼司が眉を上げた。鋭い眼差しに、含みが宿る。
「俺が君を娶ったのは、飾りを置くためじゃない」
相沢愛音が言葉を探すより先に、彼は一語一語、区切るように言った。
「奥さん。俺は本気だ」
だから――同じベッドで寝る。それだけの話だ。
相沢愛音の腕が、横でぎゅっと固まる。顔を上げると、礼司の目が愉しげに細くなる。
「怖くなった?」
