第3章
部屋の静けさがじわりと広がり、数秒後、相沢愛音はぱっと笑った。
「もちろん……いいよ、礼司。ベッドまで支えてあげようか」
陶器のように白い肌。すっと伸びた長い眉に、アーモンド形の瞳。笑うと、目の奥に星屑が散ったようで、眩しくて目がくらむほどだった。
四宮礼司は、彼女が何気なく呼んだ「礼司」に一瞬だけ意識を持っていかれ、顔を上げる。相沢愛音の瞳とぶつかった途端、胸の奥がかすかに揺れた――が、その揺れはすぐ、波紋も残さず消える。
礼司は視線を外し、ひとりでベッドの縁まで移動すると、両腕の力だけで体を引き上げ、寝台へと乗り移った。
動きは無駄がなく、きびきびしている。服の下の筋肉は締まり、強さが滲む。とても脚が利かない人間には見えなくて、相沢愛音は観察していた視線をそっと引っ込め、反対側へ回り込んで横になった。
とはいえ、やはり居心地は悪い。彼女はベッドの端っこに体を寄せ、今にも転げ落ちそうな体勢のまま、そわそわとバランスを取った。
今夜は眠れないかも――そう思っていたのに、一日中振り回された疲れがどっと押し寄せ、気づけば重たい眠りに沈んでいた。
深夜。ぼんやり寝返りを打つと、鼻先をかすめる薬草のような匂い。
相沢愛音は小さく鼻を鳴らす。寝ぼけた頭では考える前に体が動いて、隣の熱源にぎゅっと抱きつき、そのまま夢の底へ落ちていった。
暗闇の中で、男が音もなく目を開ける。
翌日。
相沢愛音が目を覚ますと、隣に四宮礼司の姿はもうなかった。大きくあくびをしながら起き上がり、洗面を済ませたところで実家から電話が入る。
『三十分以内に戻りなさい』
聞く気はなかった。けれど家に置いたままの物がある。結局、相沢愛音は戻ることにした。
玄関を入った瞬間、視界を横切る黒い影。
反射的に首を傾けて避ける。
ガラスのコップが壁に叩きつけられ、ぱんっと乾いた音を立てて粉々になった。
相沢邦夫が怒鳴りつける。
「よくもノコノコ戻ってきたな!」
相沢愛音は可笑しくなってしまう。
「呼び戻したの、あなたでしょう?」
「お姉ちゃん」
ソファに座っていた女が、眉をひそめて相沢愛音を見た。白いワンピース。似た顔立ちは五、六分ほどで、血の気が薄く見える。
「どうしてお父さまに口答えなんてするの?」
その隣には、怒りで顔を赤くした久遠成安。
「相沢愛音! 外で男に色目使っておいて、その態度かよ。笑えるよな!」
罪をなすりつける言い草に、相沢愛音は唇の端だけ上げた。
「二股が趣味だと、みんなも同じだって思い込むの? 救いようないわね」
言い捨ててから、相沢衣奈へ視線を向ける。
「それに、ずいぶん元気じゃない。昨日は自殺騒ぎ起こしておいて、今日はここでくだらないおしゃべり?」
「相沢愛音、お前まだ衣奈をいじめる気か!」
久遠成安が勢いよく立ち上がった。
「昨日あいつは死にかけたんだぞ。心配もしないで、そんな毒吐くとか……やっぱりお前は最低だ!」
相沢邦夫がテーブルを叩く。
「衣奈にこれ以上ちょっかい出すなら、今すぐ出ていけ!」
相沢愛音は相手をする気も起きず、踵を返して玄関へ向かった。今日は物は回収できそうにない。改めて来ればいい。
「待て!」
相沢邦夫の声と同時に、前方に男たちが現れた。最初から用意されていたのだろう、無表情の屈強なボディガードが数人。
相沢邦夫が吐き捨てる。
「恥知らずに外で好き放題してるような女は、もう相沢邦夫の娘にふさわしくない」
「お前の祖母が残したレシピを渡せ。それから出ていけ」
――なるほど。大騒ぎして呼び戻した理由は、それか。
相沢愛音は腑に落ちると同時に、胸の奥が冷たく笑った。
相沢家は調香で成り上がった家だ。だが相沢邦夫には、その才がまるでない。才能があったのはむしろ母だった。
祖母は見切りをつけるように、相沢愛音を自分のそばに置いて学ばせ、会社の雑務や経営は相沢邦夫に任せた。母の力もあって相沢家は次々に人気の香りを生み出したが、幸運は長く続かなかった。
愛音が六歳のとき、母は急病で亡くなった。
残されたのは、長年研究してきた一枚のレシピだけ。
そのレシピは相沢邦夫には渡されず、祖母が密かに隠し持ち、最期のときに――人目を避けて相沢愛音へ託した。だがそれを相沢衣奈に見られてしまい、それ以来、この家の人間はレシピを狙い続けている。
相沢愛音は淡々と言った。
「渡すわけないでしょ」
相沢邦夫の顔が暗く沈む。最初からこうするつもりだったのだろう。
「なら、考えが変わるまでそこにいろ。欲しくなったら自分から出てこい」
言い終えるや、ボディガードたちが一斉に動いた。
腕を掴まれ、抵抗する間もなく部屋へ押し込まれる。鍵のかかる音がして、相沢愛音の背中で扉が閉ざされた。
「何するの! これ、監禁よ! 出して!」
叫んでも、外から返事はない。
スマホを取り出す。けれど電波は立っていなかった。レシピのために、ここまで周到に準備したのだ。
逃げられない。相沢愛音は無駄に暴れるのをやめ、体力を温存した。
それでも胸のどこかに、小さな希望が残る。
――私は一応、四宮礼司の妻だ。私がいないって気づいたら、探しに来てくれる……よね?
夜の七時、八時を回っても、相沢邦夫は食事を運ばせなかった。
空腹で手足が震え、相沢愛音はベッドの縁にもたれたまま、意識が遠のくように眠りへ落ちていった。
