第4章
朦朧とした意識の底で、耳元にカサカサとした音がまとわりつく。相沢愛音は重たいまぶたをどうにか持ち上げた。まだ頭がはっきりしないのに、目の前にはいつの間にか二人の招かれざる客が立っていた。
愛音は眉をひそめ、飢えで力の入らない手足を無理やり動かして身を起こす。
「……何しに来たの?」
この二人が情けをかけて解放しに来た、なんて思えるはずもない。
案の定、次の瞬間。久遠成安が露骨に嫌悪を滲ませて愛音を一瞥し、片手をポケットに突っ込んだまま見下ろした。
「衣奈、だから言っただろ。この女は恩知らずなんだって。お前が優しいから様子を見に来ようなんて言い出すんだ。俺に言わせりゃ、相沢さんの言った通りしばらく閉じ込めとくべきなんだよ」
言い終えるや否や、彼の腕が軽く押される。
相沢衣奈が甘ったるく声を作り、たしなめるように言った。
「成安兄さん、何言ってるの。お姉ちゃんだって、ただあなたに意地を張ってるだけでしょう? 何年も一緒だった二人の仲が、そんな簡単に切れるわけないよ。たしかにお姉ちゃんは間違ったことをしたけど……事情があるのも分かるし、そもそも原因は私にあるんだもの。だから私は謝りに来たの」
細く柔らかな声。成安の目にたちまち庇護欲が浮かび、慌てて宥める。
「衣奈、そんな言い方するな。あいつが身の程知らずなだけだ。お前が気にすることじゃない」
そう言ってから、彼は愛音を睨みつけ、低い怒声を浴びせた。
「見ろよ、お前がやらかしたこと! こんな状況でも衣奈はお前のことを考えてるのに、お前は嫉妬ばっかり! さっさと来て衣奈に謝れ!」
愛音は目の前の男女を、どこか可笑しそうに眺めた。胃の奥がむかむかする。気持ち悪い――その一言に尽きる。
冷えきった光を瞳に宿し、彼女は鼻で笑って視線を逸らす。
「謝る? 寝言は寝て言えば」
「……っ!」
「久遠成安。私たち、もう何の関係もないでしょ。あなたと衣奈がどうなろうが勝手にすればいい。私の前でいちゃつかないで。目障り。吐き気がする」
愛音はふらつく身体を支えながら立ち上がり、言い切った。
成安は、彼女の口元に浮かぶ嘲りを見て、胸の奥がじわりと削られるような感覚に襲われた。
――どうしてだ?
相沢愛音はいつだって自分を一番に気にかけて、まとわりつくように側にいた。追い払っても追い払っても離れなかったのに。今日のこれは、いったい何だ。
眉間に皺が寄り、理由のない苛立ちが腹の底に溜まっていく。
相沢衣奈は、成安の目に浮かんだ複雑な色を見て、瞳の奥に嫉みを走らせた。
そしてすぐに、しおらしく腕を下ろし、顔を覆って口を開く。
「お姉ちゃん……まだ怒ってるんだよね。私、本当に、わざと結婚式を壊そうとしたわけじゃないの。ただ……私はずっと成安兄さんのことを、本当のお兄ちゃんみたいに思ってきたから。成安兄さんが結婚するって考えたら、私……」
息を吸い、顔を上げたときには、涙が瞳いっぱいに溜まっていた。声も震えている。
「お姉ちゃんが嫌なら、これからは成安兄さんから距離を取る。だからお願い……私のせいで二人が喧嘩しないで」
言い終える前に、彼女はさらに成安へと縋るように言葉を重ねる。
「結婚式でお姉ちゃんがあんなことをしたのは確かに……だけど、私、お姉ちゃんのこと分かってる。きっと誰かを連れてきて、見栄を張っただけなの。成安兄さん、早くお姉ちゃんをなだめてあげて。私と縁を切るって言えば、きっと許してくれるよ。そうしたら二人はまた夫婦に……」
涙が頬を伝う。名残惜しげで、それでも手放さなければならない、そんな仕草をわざとらしく作ってみせた。
成安は痛々しいほどの表情で衣奈を抱き寄せ、小声で宥める。
「衣奈、何言ってんだよ。俺が、お前を放っておくわけないだろ」
そして振り向きざま、愛音に獣のような目を向け、低く脅した。
「相沢愛音。俺たちはお前に逃げ道を用意してやってるんだ。おとなしく声明を出せ。あの男との結婚は偽装で、俺を怒らせたくてやっただけだってな。それからレシピを両手で差し出せ。そうすりゃ、もう一度チャンスをやっても――」
「ほんと? 本当に、もう一回チャンスくれるの?」
愛音は吐き気を押し殺しながら、わざと甘く同調してみせた。
成安は案の定、嫌悪に満ちた顔で「ほら見ろ」とでも言いたげに顎を上げる。
「当然だ」
「でも、もう入籍しちゃったんだけど。どうやってチャンスくれるの?」
にこり、と愛音が笑う。二人の顔色が一瞬で変わるのが愉快だった。
成安は目を見開き、怒りで目が燃え上がる。
「……は? お前、まさか本当に入籍したのか!?」
衣奈も呆然とした顔で固まった。
二人で散々話し合ったのだろう。愛音が成安をどれだけ気にしているか知っている。どうせ脅しだ、ハッタリだ――そう高を括っていたに違いない。
それが、まさか本当にやるとは。
愛音は二人の表情に満足し、容赦なく追い払う。
「用がないなら帰って。あと、あの人に伝えて。レシピが欲しいなら、私が死んでからにして」
声は弱っていて顔色も青白いのに、背筋だけは不自然なほど真っすぐだった。
成安の目の奥に暗い光が宿る。愛音が背を向けた、その瞬間――彼の手が伸び、肩を掴んだ。目を赤くして叫んだ。
「相沢愛音……嘘だろ? お前、俺のこと好きだったじゃねえか! 裏切るわけない!」
肩を揺さぶられ、愛音の視界がぐらりと回る。彼女は堪えきれず手を振り払った。
「久遠成安、頭おかしいの?」
返事はない。
訝しんで見れば、成安は愛音の肩口を異様なほど凝視していた。
彼の視線を辿ると、肩に小さな赤い痕。無意識に掻いてしまったのだろう、薄い紅が滲んでいる。
愛音ははっとして服で隠す。顔がわずかに強張った。
次の瞬間、衣奈が甲高く、わざとらしい驚き声を上げた。
「お姉ちゃん! 成安兄さんに申し訳ないこと、よくそんなことできるね!」
愛音は胸が冷たくなり、咄嗟に言い訳しようとした――その前に、成安が突進してきて、乱暴に振り払うように彼女を床へ叩きつけた。
「相沢愛音……どこまで下劣なんだよ! 衣奈が必死に庇ってやってたのに、もうとっくにあの男と寝てたんだな!」
「久遠成安、何言って――!」
痛みをこらえ、愛音は身体を丸めながら逃げようとする。だが動いた瞬間、成安に押さえつけられた。
「ビリッ」
布が裂ける音。
成安の顔は歪み、瞳の奥には怒りなのか嫉妬なのか、判別のつかない熱が渦巻いていた。
「相沢愛音……廃人なんかで満足できるのかよ」
ようやく理解した。こいつは、何をしようとしているのか。
背筋が凍りつく。愛音は必死に身体を捻り、露わになりかけたところを両腕で庇う。それでも口だけは折れなかった。
「できるわよ。あんたより、ずっとマシ」
「そうかよ。愛音、お前は……お利口じゃないな」
成安は、壊れたみたいに笑った。
愛音は寒気を押し殺しながら、必死に身を守る。
横では衣奈が、楽しそうな目で見下ろし、火に油を注ぎ続ける。
「お姉ちゃん、ほんと恥知らず。成安兄さんがあんなにすごいのに、隠れて男を探すなんて……しかも廃人だなんて。ふふ、節操なさすぎ」
今は言い返している余裕すらない。愛音は壁際へとにじり下がり、成安の理性を引き戻そうと声を絞り出す。
「久遠成安……相沢衣奈のために純潔守るとか、いつも言ってたよね? じゃあ今、何してるの?」
言い終える前に、足首を掴まれた。ずるずると引きずられ、成安の目の前へ。
次の瞬間、彼の手が上がり、愛音のシャツを乱暴に引き裂く。続けて頬を張り飛ばした。
「クズ、お前が衣奈と同列のつもりか?」
