第5章
久遠成安は怒りに支配され、その平手は容赦なく、十割の力で振り抜かれた。
相沢愛音は耳の奥がジンジンと鳴り、全身から抵抗する力が抜け落ちていくのを感じた。
助けを呼ぼうと口を開いても、声が一欠片も出ない。
久遠成安の顔がぐいぐい迫ってくる。絶望が胸をかすめ、涙がするりと頬を伝った。
「――ドン!」
「きゃっ!」
凄まじい音が、ぼんやりした意識を一気に引き戻す。まだ目を開けきらないうちに、身体を押さえつけていた重みが消え、代わりに温かなものがふわりと覆いかぶさった。
目を開くと、そこには四宮礼司の、欠点の見当たらない顔があった。
表情は硬いまま。深い黒の瞳に、ひやりとした光が走る。
「大丈夫か」
冷え切った一言なのに、相沢愛音は鼻の奥がつんとして、泣き出しそうになる。
「……大丈夫」
かすれた声でそう吐き、相沢愛音は慌てて上着を身に引き寄せて羽織る。それから振り向いた。
相沢衣奈と久遠成安は、四宮礼司の背後にいた護衛たちに押さえつけられ、激しく、そして悔しげに暴れている。
「あなたたち、何者よ!? ここは相沢家よ! 不法侵入じゃない! 訴えてやる!」
「どうして来たの……?」
驚いて四宮礼司を見ると、彼は眉一つ動かさない。
「執事から、相沢家に来たと聞いた。様子を見に来ただけだ」
まさか、こんな光景に出くわすとは。
相沢家は――本当に、よくもまあ。
礼司の周囲に、刺すような殺気が滲む。視線が久遠成安へ滑った、その瞬間――
護衛が即座に意図を汲み取り、喚きながらもがく久遠成安をさらに押さえ込み、拳を叩き込んだ。鈍い衝撃音の直後、甲高い悲鳴が弾ける。
相沢衣奈はそれを見て、怯えたように叫んだ。
「成安兄さん!」
彼女は振り返り、驚きと恐怖をない交ぜにして四宮礼司を見上げる。声が震え、言葉が途切れ途切れになる。
「あ、あんた……あの、廃人……!? どうして、そんなこと……!」
四宮礼司は相手にもしない。相沢愛音を抱き上げて膝に収めると、そのまま連れて出ていこうとした。
玄関へ向かったところで、ようやく騒ぎに気づいた相沢邦夫たちが駆けつけてきた。
床には倒れた物が散らばり、ひどい有様だった。
林田美菜は、娘がみすぼらしく床に転がっているのを見て顔色を変え、押さえつけている護衛を押しのけて駆け寄った。
「衣奈、大丈夫!?」
相沢衣奈は泣きじゃくりながら林田美菜の胸にしがみつき、悔しさをむき出しにして叫ぶ。
「パパ! こいつ、相沢愛音の間男よ! 早く止めて!」
相沢邦夫も四宮礼司を見て、相沢愛音の新婚の夫だと気づいたのだろう。露骨に顔を曇らせる。
「相沢愛音! お前、何をしている! 誰彼かまわず連れ込んで……俺を父親だと思っているのか!」
相沢愛音は礼司の腕の中で、その言い草に思わず笑いそうになった。
「相沢さんは、どの立場で私を叱っているんですか。昨夜、私たちはもう関係ないって言ったのは、あなたですよね」
家の事情を外の人間の前で言い返されるとは思っていなかったのだろう。相沢邦夫は目を吊り上げ、顔を赤くする。
空気が硬直する。相沢愛音は目眩がして、力が入らない。
「用がないなら、帰ります。礼司が外出するのだって簡単じゃないので」
怒りはさらに膨らむ。しかし止めようにも、四宮礼司の背後の護衛たちが目に入って、足が竦む。
そのとき、相沢衣奈が涙を浮かべたまま、ふらりと前に出てきた。
「お義兄さん、失礼をお見せしてしまって申し訳ありません。姉は普段、家で甘やかされて育ったせいで、少しわがままなんです。でもご安心ください。私たちがきちんと諭しますから」
深く頭を下げ、申し訳なさそうな顔で四宮礼司を見上げる。
相沢愛音は呆然とした。
この状況で、まだ自分に泥を塗るつもり?
言い返そうとしたが、四宮礼司が軽く制する。相沢愛音は黙ったまま、彼の胸元から相沢衣奈の芝居を見守るしかなかった。
そして相沢衣奈は、期待を裏切らない。
謝罪の次は、温和な微笑みを浮かべた。
「でも……本当に、姉は幸せ者です。お義兄さんのような素敵な方に出会えたなんて、姉の光栄です」
「確かに、幸運だ」
四宮礼司は妙に素直に相槌を打ち、さらに相沢愛音へと目を落とした。
その瞳の奥の感情は複雑で――けれど、決して好意的なものではないと相沢愛音にも分かった。
相沢衣奈はほっとしたように笑い、距離を詰めて取り入ろうとする。
だが、四宮礼司の次の一言が、彼女をその場に縫い付けた。
「愛音に出会えたことが、俺の人生で一番の幸運だ」
「……え?」
相沢衣奈は愕然とし、表情を取り繕うのに必死になる。
「お義兄さん、何か勘違いを……? 姉は……」
「どういう人間かなんて、お前に紹介してもらう必要はない。俺は、ああいうのが好きなんだ。甘えようが、わがままだろうが構わない。俺の女は俺が甘やかす。――で、お前は」
四宮礼司は相沢衣奈を上から下まで冷ややかに見て、吐き捨てた。
「何様のつもりだ。俺の前で、くだらない寝言を回すな」
相沢衣奈の顔から血の気が引き、数秒後、今度は羞恥で一気に赤く染まった。
身体が小刻みに震え、目の奥に濃い憎悪が滲む。
林田美菜は娘を罵られて黙っていられず、四宮礼司の方を指さして喚いた。
「調子に乗らないで! うちの子が親切に忠告してあげてるのに、何その言い方! そのクズの本性を知ったとき、泣くのはあんたよ!」
「俺の心配をする暇があるなら、自分たちの身の振り方でも考えろ」
四宮礼司は鼻で笑い、背後の騒ぎを切り捨てるようにして、相沢愛音を抱いたまま出ていった。
その直前、相沢愛音はふと思い立ち、四宮礼司の肩を軽く叩いて足を止めさせる。
そして振り返ると、殴られてぐったりした久遠成安を小首をかしげて見下ろし、容赦なく頬を何度も叩いた。
「久遠成安、鏡でも見たら? 自分が何様だと思ってるの。あなたなんかと関わったことが、私の人生で一番の汚点よ」
「相沢愛音――!」
久遠成安は護衛に押さえられ身動きが取れず、悔し紛れに怒鳴るしかない。
相沢愛音はずいぶん遠くまで歩いても、背後の咆哮がいつまでも耳に残っていた。
