第6章
久遠成安は殴られて立ち上がれず、それでも怒り狂った。
けれど結局、できることは救急車で病院へ運ばれることだけだった。
相沢衣奈はずっと付き添っていたが、どうしても意識が逸れてしまう。頭に浮かぶのは、あの車椅子の男――。
今までは大して気にも留めていなかった。だが入院してから、彼女は病院の入口に置かれた雑誌の表紙で、偶然あの男の写真を見つけたのだ。
その正体に息をのむと同時に、幼い頃から父を奪っていった相沢愛音への憎しみが、いっそう濃くなる。
どうして相沢愛音は、適当に誰かと結婚しただけで、四宮家の――雷みたいに決断が早く、手段も容赦ない「若様」に当たるの。
それなのに私は、ボディガードにすら勝てない久遠成安を守っているだけ。
だめだ。奪い取らなきゃ。
四宮礼司に釣り合うのは、相沢衣奈――私だけなんだから。
*
一方、四宮礼司は相沢愛音をそのまま屋敷へ連れて帰らなかった。近場の病院へ向かい、診察を受けさせる。
結果は軽い脳震盪。入院の手配をしようとしたところで――
「病院、いや……」
相沢愛音の声は弱々しく、掠れていた。四宮礼司は眉をひそめ、また我儘かと口を開きかける。だが、恐怖で揺れる彼女の瞳を見た瞬間、言葉が喉で止まった。
「患者さんが入院を望まれないなら、ご自宅で安静にする形でも構いませんよ」
担当医も四宮礼司のことは知っている。ここは四宮家が出資する私立病院で、四宮家には専属の医療スタッフもいる。自宅療養でも、病院と遜色はないだろう。
四宮礼司は短く返事をして会計を済ませるよう命じ、それからベッドの上で降りようとしている相沢愛音へ目を向けた。
裸足。
その白い足先を見たまま、ふっと動きが止まる。瞳が、暗く沈む。
「怪我してるくせに、じっとしてられないのか」
相沢愛音はきょとんとし、病床の前にいる男を見上げた。誰に言っているのか分からない、という顔。
降りるだけなのに。どうしてそれが「じっとしてない」になるの?
左右を見回しても、病室に他の人間はいない。
「……帰らないの?」
少し落ち着き、頭のふらつきが薄れてから口を開く。声はまだ掠れている。
さっきの四宮礼司の言葉は、聞かなかったことにした。どうせ彼の機嫌が悪いだけで、自分には関係ない――そう思いたかった。
帰る、か。
あの骨の髄までしゃぶり尽くすような場所を思い出し、四宮礼司の口元が嘲るように歪む。
その変化に気づいた相沢愛音は、床に下ろした足を反射的に引っ込めた。おずおずと、探るように尋ねる。
「ど、どうしたの……? 今日は帰りたくない?」
もう真夜中だ。帰らないなら、どこへ行く?
まさか四宮家の若様が、家があるのにホテルに泊まるなんて――。
けれど、昨日会った伯母のことを思い出す。四宮礼司じゃなくても、ああいう人はあまり好きになれない。
相沢愛音が怯えたように縮こまっているのを見ながら、四宮礼司は車椅子を操作してドアへ向かった。が、背後から音がしない。振り返る。
「来ないのか」
相沢愛音は慌ててベッドを降り、小走りに二歩――。
「走るな」
言われて初めて、医者の注意を思い出す。止まれず、そのまま四宮礼司のほうへ――ぱたぱたと突っ込んでしまった。
四宮礼司は落下地点が分かっていたみたいに、車椅子を避けさせるつもりだった。だが、上がった手が言うことを聞かない。
抱えるように受け止め、膝をつきかけた彼女の身体を支える。
「……まだ言わせるのか。これが誘ってないって?」
漆黒の瞳に、冷たい光が宿る。薄い唇が嘲るように弧を描いた。
相沢愛音は気まずそうに立ち直ろうとする。だが次の瞬間、頭がふわりと暗転し――崩れた。
今度は支える暇もない。彼女はそのまま四宮礼司の膝の上へ倒れ込む。うつ伏せ。最悪の体勢で。
「相沢愛音!」
四宮礼司は顔を険しくし、歯ぎしりするように名を呼ぶ。自分の反応がおかしいことに気づいているのに、止められない。
相沢愛音は慌てて押し退けようとするが、相手は車椅子だ。そう簡単に動くはずもない。
そのせいで、手がうっかり――彼の弱いところに触れてしまった。
「……うっ」
低い呻き。四宮礼司の耳の先が、暗闇でも分かるほど熱を帯びる。
「相沢愛音。わざとか?」
掠れた声。真っ黒な瞳の奥に、かすかな潤みが滲む。
その表情が、妙に綺麗で。
相沢愛音の胸の奥がむず痒くなり、慌てて視線を落とした。見てはいけないものを見たみたいに。
触れるつもりなんてなかった。まして、無表情で冷徹だと噂される四宮礼司が、こんな顔をするなんて想像すらしていなかった。
……勘違いしそうだ。誘っているのは、むしろ彼のほうじゃないの?
二人がどうやって屋敷に戻ったのか、覚えていない。
相沢愛音が身支度を整えてベッドに入るころには、四宮礼司はすでに片側に横になっていて、目を閉じていた。深く眠っているようにも見える。
明かりを消し、相沢愛音は布団の端をそっと持ち上げて潜り込む。
どれだけ慎重に動いても、擦れる気配は避けられない。ようやく落ち着ける姿勢を見つけた、そのとき。
男の低い声が、耳元に落ちた。
「それ以上動いたら、お前を裏庭に放り投げて犬の餌にする」
閉じかけた目が、ぱっと開く。
相沢愛音は勇気を出して振り返り、小さな声で言った。
「犬は……人、食べないよ」
四宮礼司が鼻で笑う。
犬、という名前なら犬なのか?
――甘い。
「試したいなら、四宮壱に連れて行かせる」
声に冷気が混じり、相沢愛音はぞくりと肩を震わせた。嘘だとは思う。でも真夜中に「犬」を見に行く趣味もない。
だから、従う。
「ごめんなさい。もう寝る。……おやすみ」
本当に眠い。頭は重く、目を閉じればすぐ落ちそうだった。
けれど今夜、彼女は眠れなかった。
相沢愛音は悪夢を見た。
相沢家の、あの薄暗い屋根裏部屋。表向きは優しい継母が、手に革鞭を握って彼女の前に立っている。
相沢愛音は耳を塞いだ。聞きたくない。吐き捨てられる罵りの言葉を。
それでも、指の隙間から、掌の奥から――汚い言葉はしつこく耳に入り込んでくる。
どれほど時間が経ったのか分からない。
身体の傷は痛みを失い、銀色の鞭には赤黒い色が染みついていた。
継母が母を罵った瞬間――相沢愛音は跳ね起き、継母へ突進した。
一緒に死んでやる。
暗い部屋で、相沢愛音ははっと目を開いた。荒い息を繰り返す。
夢だと分かっているのに、どうして現実でも――何か凶悪なものに見張られている気がするんだろう。
「悪夢か」
男の澄んだ声が、唐突に響いた。
相沢愛音はびくりとし、反射で枕を掴むと四宮礼司に向かって振り下ろしていた。
ひゅっと風が切れ、次の瞬間。
ふわふわの枕が、こつん、と彼の頭を叩く。
「……仕返しか」
声は風みたいに柔らかい。昼間のような刺々しさも、圧もない。
相沢愛音も我に返る。結婚したのだ。隣にいるのは新婚の夫で、しかも自分は今、その夫を枕で殴った。
「ごめんなさい……痛かった?」
暗くて顔が見えない。枕を置き、枕元の小さなライトを探そうと手を伸ばす。
だが、手首がふいに止められた。引こうとしても、抜けない。
「相沢愛音。俺と結婚した目的は何だ」
見えていないはずなのに、彼女の手は迷いなく彼の整った頬に触れてしまっていた。
「相沢家から逃げるため……それ、あなたも知ってるでしょ」
その点は四宮礼司も理解している。今日、相沢家でわざと時間を引き延ばしたのも――相沢愛音を試すためだったのだから。
