第3章

 彼が近づいてくるにつれ、抗いようのない甘い匂いが、私の鼻腔を貫いた。

 ――血の匂い。彼の血だ。

 黒木家の連中が言っていたのは本当だった。彼の体内を流れているのは、私たち血族の傷を癒やす禁忌の血。喉元に牙を立て、ひと口でも――たった一滴でも飲めれば、粗悪な豚の血を呑まされた反動は一瞬で消え去る。この場の狩人どもなど、皆まとめて引き裂いてやれる。

 私は必死に口を開く。牙が擦れて、きい、と嫌な音を立てた。だが、弱りきった身体は指一本すら動かない。

「やれ、ビンセント! この化け物の首を落とせ!」

 アルポルが傍らで狂ったように吠える。

 ビンセントの剣先が私の胸に触れた。灰緑の瞳が、薄闇の中でどろりと揺らぎ、私には読み取れない濃い感情を湛えている。彼は致命の一撃を選ばない。刃は皮膚を浅く裂いただけだった。

 その瞬間、東の空が闇を引き裂いた。

「くそっ、日が出やがった!」

 アルポルが吐き捨てる。どうやら一太刀で楽にしてやるのは癪らしい。

「手を汚すな、ビンセント! あいつに神の怒りを味わわせろ! 鉄鎖であの老いた樫に打ちつけろ。こっちは黒木嶺の掃討任務が残ってる!」

 彼らは私の身体を乱暴に縛り上げ、樹の幹へと押しつけた。葉の隙間から射し込んだ最初の陽光が、まっすぐ私の肩を貫く。

「――あぁぁぁぁっ!!」

 人間には決して理解できない痛み。陽光は砕けた硝子のように、毛穴から容赦なく肉の奥へ突き刺さる。皮膚が瞬時に泡立ち、黒く炭化していく。焦げた肉の臭いと血の生臭さが混ざり、喉の奥を焼いた。

「地獄の火を存分に楽しめ、高貴なるエウィラー」

 アルポルは冷たく笑い、狩人たちを引き連れて背を向けた。

 視界が血のような赤に染まる。絶望と悔恨が毒蛇みたいに心臓へ噛みつき、締め上げる。……嫌だ。私は、こんなところで終われない。クレアの算段、アサーの裏切り、黒木家の折檻……まだ連中を地獄へ引きずり込んでいない。灰すら残さず消えるなんて、許されるものか。

 灼ける痛みの中、意識がぷつりと途切れ――闇へ落ちた。

 ……

 次に目を開けたとき、そこに烈日も、焦げ臭さもなかった。

 木材と赤葡萄酒が混じった香りが漂う。私はベッドの上に横たわっていた。もっと信じがたいことに、体内を蝕んでいた灼熱は跡形もなく消え、折れて繋ぎ直された腕には、元の力が満ちている。

「目を覚ましたか、我が女王」

 影の中から、低く掠れた男の声が響く。

 ビンセントが闇から歩み出た。黒木家の象徴みたいなトレンチは脱ぎ捨て、白いシャツを第二ボタンまで外している。彼の顔色は年中死人みたいに白いはずなのに、今は頬が異様に、熱を帯びて赤い。

 彼はベッド脇まで寄ると、魅入られたように私の無傷の肌を見つめた。

「あなたが……助けたの?」

 警戒して目を細めると、獠牙が反射的に覗いた。

「どうして。あなたは黒木家の狩人でしょう」

「狩人?」

 ビンセントは鼻で笑い、膝を折ると、私の足元へ真っ直ぐ跪いた。

「奴らは俺を異端扱いだ。毎日、銀の鞭で背中に贖罪の経文を刻む。エウィラー、忘れたのか。五年前、地下墓園で黒木家があんたを囲んだとき――俺は囮として、真っ先に放り出された」

 記憶が、鋭く巻き戻る。

 吹雪の夜。私は狩人の首を五つへし折った。そして、傷だらけで震える少年と目が合った瞬間、伸ばした爪を引っ込めた。

「勝てるわけがない。死ぬと思った」

 ビンセントの指が震えながら、私のスカートの裾に触れる。瞳には病的なほどの敬虔さと熱が宿っていた。

「泥まみれの囮を見たあんたの目に……慈悲があった。俺を見逃した。あの夜から確信したんだ。黒木家が崇める神なんて嘘だって。あんたこそ、この世でいちばん強くて、美しい神だ。俺は毎日祈ってた……もう一度、あんたの足元に跪けるようにって」

 そういうことか。

 裏切りに穴だらけにされた私の心に、ひどく皮肉な冷えた痛みが落ちる。手塩にかけ、家族同然に育てた連中は私を絶路へ追い立てる。けれど、気まぐれに見逃した「敵」は、家を捨ててまで私に膝をつこうとしている。

「回復したなら、行こう」

 ビンセントは立ち上がり、眼底に殺気を灯した。

「おまえをこんな目に遭わせた『大事な家族』の顔を、見に」

 夜が降りると、ビンセントは車を出し、私を――私自身の屋敷へ連れ戻した。

 狩人に爆破された大門は、今も無残に開け放たれている。瓦礫と血の跡が散った廊下を抜け、主客間の扉の前で足を止めた。扉は半分だけ開き、中は灯りで白々と明るい。

 ソファには、絡み合う二つの影があった。

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