第1章
「古川朱那――おまえは天華を突き飛ばしたうえ、謝りもしない。だったら蛇室で反省してろ!」
古川朱那の脚に、腕ほどもある太い花蛇が二匹、ぐるぐると巻きついた。ぞわり、と頭皮が粟立ち、視界が白くなる。気を失いかけた。
巨大な恐怖の底から、必死に顔を上げて助けを求めようとする。
けれど――ガラス張りの部屋の外に立っていたのは、長兄の古川礼和だった。
冷えた目のまま、朱那が追い詰められていく様子を、ただ見下ろしている。
……おかしい。
自分は、死んだはずじゃなかった?
なのにどうして、こんなにも見慣れた光景が目の前にある?
まさか――二十二歳の誕生日、周防天華に嵌められた、あの日に戻ってきた……?
周防天華は、舅の娘だ。
舅は母を助けるために腎臓を提供し、術後感染で亡くなった。母もその罪悪感に押し潰されるように、ほどなく息を引き取った。
父と三人の兄は天華を古川家に迎え入れた。
けれどその日から、朱那は「家族」ではなくなった。露骨に疎まれ、あらゆる形で狙われた。
誕生日の宴で、天華が階段から転げ落ちた。
それを朱那のせいにした。
礼和は問答無用で、朱那に土下座して謝れと迫った。
朱那が拒むと、蛇室へ突き飛ばした。恐怖で正気を失い、泣き叫んで放してくれと縋りついても――礼和は、朱那がショックで失神するまで、ただ見ていた。
目を覚ましたあと、朱那の心には深い傷が残った。
臆病になり、弱くなり、媚びるように機嫌を取るようになった。
けれど、譲歩の果てに待っていたのは、さらなる蹂躙だった。
天華は朱那が宮崎家の当主を救った功績を横取りし、一気に名門の客人へ。
礼和は朱那が騒がぬよう薬を盛り、数か月声を奪った。
天華は「好き」と言うだけで、母が朱那のために仕立てた舞いの衣装を奪った。
礼希は母の遺品を、すべて天華に渡した。
天華が病に倒れ骨髄が必要になると、礼人は朱那の血を抜いて適合検査をし、手ずから手術台に押さえつけて命まで差し出させた。
長い痛みの末、朱那はうつになった。
天華が他人の音楽を盗作している証拠を集めたが、父に見つかった。
父は迷いなく朱那を精神病院へ放り込み、十年も閉じ込めた。
電気ショック、暴行、猥褻、溺水……人の所業とは思えない虐待。
三十二歳、朱那は七階から身を投げ、ようやく地獄を終わらせた。
……それなのに。
生き返った?
ガラスの向こうで氷のような顔をした男を見つめながら、胸の奥が痛くて、痺れて、息が詰まる。
自分は実の妹で、実の娘なのに。
結局、血縁よりも「外の子」なのだ。
そのとき、花蛇が背中へ這い上がり、ざらりとした舌が頬を撫でた。
「――っ!」
朱那は悲鳴を上げ、次の瞬間、闇に落ちた。
ガラスの外で礼和は、ときおりスマホを見て天華の様子を確認していた。
そして朱那の叫び声が聞こえた途端、顔色を変える。
「朱那!」
扉を開けさせ、朱那を抱き上げた。
そこへ、足を引きずりながら天華がやって来た。
その清純そうな瞳に、怨毒が一瞬走る。
(気絶したの? いいわ、そのまま……死ねばいいのに)
だが口では、やさしげに言った。
「お兄ちゃん、朱那姉さんどうしたの? いまお医者さん呼んでくるね」
くるりと背を向け、二歩ほど進んだところで、わざとらしく崩れ落ちる。
「……あっ、足が……」
礼和はそれを見るなり心を痛め、朱那をメイドに押しつけるように預けてから、天華を支えた。
「足を痛めたばかりだろ。どうしてそんなに無茶をする。俺が抱いて医者に行く」
「じゃあ、朱那姉さんは……?」
「ただ気を失っただけだ。死んだわけじゃない。それに――自業自得だろ!」
朱那に一瞥もくれず、礼和は天華を抱えて慌ただしく去っていった。
――朱那が意識を取り戻したのは、一昼夜を過ぎたころ。
目を開けると、自室の柔らかなベッドの上だった。
喉はからからで、身体のあちこちが痛い。
蛇の感触が、悲鳴が、冷たい視線が――鮮明に脳裏を掻き回す。
それでも朱那は歯を食いしばり、自分に言い聞かせた。
せっかく生き直せたのに、こんなことで折れてたまるか。
今世は、自分のために生きる。
そう思うと、少しずつ呼吸が整っていった。
扉が開く。
背の高い影が入ってくる。礼和だ。
冷たい視線が一度走っただけで、部屋の空気が沈む。
「目が覚めたなら謝れ。そうすれば、今回は水に流してやる」
施しのような口調だった。
礼和は振り返り、廊下にいた天華を支えて入室させる。
杖をつき、足には分厚い包帯。天華は小さな声で言った。
「お兄ちゃん……お姉ちゃん、きっとわざとじゃないよ。家族なんだから、謝らなくていいのに……」
朱那へ視線を落とした瞬間、その瞳の奥に得意と挑発がちらりと宿る。
「おまえが優しすぎるから、ずっと舐められるんだ。今日謝らないなら、終わらせない」
礼和は冷然と朱那を睨む。まるで道端の野良犬を見るように。
ベッドの上で、朱那は吐き気をこらえた。
前世の自分は、どうやってこんな茶番に耐えていたのだろう。
朱那は低く笑い、天華の無垢な顔へ向けて言った。
「私を陥れるとき、階段の監視カメラがあるって知らなかったの?」
天華の表情が一瞬で固まる。だがすぐに取り繕い、悲しげに首を傾げた。
「お姉ちゃん……どういう意味? みんなに、私が冤罪だって言いたいの?」
「朱那、いい加減にしろ。天華はもう許してるんだぞ。これ以上は自滅するだけだ」
礼和の顔に苛立ちが浮かぶ。
朱那は疲れたように息を吐き、言い返さずにベッドを降りた。監視室へ行く。
「お姉ちゃん、まだ身体が――休んだほうが……」
天華が慌てて腕を掴む。
「触るな!」
朱那が突き放すと、天華は床に倒れ、瞬時に涙を浮かべた。
「お姉ちゃん、私……ただ……」
「朱那!」
礼和が怒鳴る。
「狂ったのか? 天華は足を怪我してるのが見えないのか!」
言いながら優しく天華を起こすが、朱那はもう振り向かず、部屋を出て階段を降りた。
「お兄ちゃん、追いかけて……!」
天華の声が震える。
証拠が出るのが怖いわけじゃない。
あのときの仕掛けは完璧で、確かに朱那は触れた。
ただ――今日の朱那は、何かが違う。
押さえつけておかないと、この先、自分の頭の上に乗ってくる。
礼和は短く頷いた。
「安心しろ」
その頃、朱那は監視映像を呼び出していた。
360度、死角なし。わずかな違和感すら映る。
礼和たちが入ってきたとき、朱那はちょうど問題の場面へ戻した。
映像の中で、天華が朱那の腕に絡みつく。
朱那が苛立って振りほどこうとした瞬間、天華は大げさに叫び、突き飛ばされたように落ちていく。
目が潰れていない限り、誰にだって分かる卑劣な芝居だ。
「たかが一本の動画で、天華を陥れられるとでも?」
背後から礼和の冷えた笑いが落ちる。
朱那の全身が凍る。
深く息を吸い、ノートPCを礼和へ向けた。
「古川殿、目をよく開いて見て」
礼和は画面を見て、言葉が喉で詰まった。顔が鉄青になる。
数秒後、机を叩きつける。
「だから何だ! おまえが天華に突っかかるから怪我したんだろうが! それに、誰がおまえの力の加減なんて知る!」
庇うためなら、平然と現実を捻じ曲げる。
朱那は滑稽さに、笑うしかなかった。
自分を証明しようとしたこと自体が、無意味だった。
「……分かった」
朱那は肩の力を抜いて笑い、胸の奥で最後の期待が消えていくのを感じた。
「謝る。私が悪かった。天華に申し訳ない。これでいい?」
