第5章
「兄さんたちがそこまで私が悪いって決めつけるなら、警察を呼ばないと潔白なんて証明できないでしょう?」
古川朱那は目を丸くし、わざとらしく肩をすくめた。
「兄貴……まさか、私に罪を被せるつもり?」
「兄貴……」
そのとき、周防天華が震える声で古川礼和を呼んだ。何か言いたげに口を開きかけて、結局飲み込む。
古川礼人はちらりと天華を見ただけで、何かを察したように数秒黙った。
それから冷たい顔で朱那を見据える。
「この件は俺が調べる。おまえは先に部屋へ戻れ」
朱那には分かった。礼人は分かっている。それでも庇う気だ。
だったら、もういい。いちいち噛みつく気も起きない。
朱那は迷いなく自室へ戻った。
ノートPCを開き、退職届の下書きを作り始める。
7月に映画学院を卒業してから、古川グループ傘下の芸能会社で研修扱いのまま働いてきた。けれど3か月以上経っても、表に立つ機会は一度も回ってこない。
前は自分の実力不足だと思っていた。
でも違った。ただ、回すつもりがなかっただけ。
古川家の男たちの心は最初から傾いている。目に映っているのは周防天華だけ。これから先の資源も、全部あちらへ流れる。
今の最優先は、離れること。自分の足で道を作ること。
しばらくネットで求人やオーディション情報を漁っているうちに、ふっと視界が揺れた。頭がぼんやりして、背中にぞくりと寒気が走る。
体温計を取ろうとドアを開けた瞬間、廊下で周防天華と鉢合わせた。
使用人に支えられて戻ってきたばかりなのか、天華は真っ青で、まだ今日の騒ぎから抜け出せていない顔をしている。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
天華は朱那の頬の不自然な赤みにも気づいたようだった。
朱那は答えない。そのまま階段を下り、リビングの体温計を手に取った。
背後で、天華がメイドに目配せする気配。
すぐにメイドが追ってきて、朱那の様子を探る。
測ってみて、朱那は乾いた笑いを漏らした。
39度。
寒気と熱が交互に襲い、身体の芯がぐらぐらする。朱那はソファに倒れ込むように横になり、内線で薬を頼もうとした。
だが、コールしてもコールしても、誰も出ない。
広い別荘が、がらんとしている。
まるで自分ひとりだけが取り残されたみたいだった。
意識はじわじわ沈み、身体は火の塊みたいに熱い。
朱那は壁づたいに起き上がり、水を汲んで喉へ流し込み、救急車へ電話をかけた。
――同じ頃。
周防天華は人に支えられて階下へ降り、真っ白な顔で「つらい」と繰り返していた。
古川家の男たちは顔色を変え、すぐに天華を連れて病院へ向かう。
玄関先に救急車が停まっているのを見て、古川礼希はそれが天華のために呼ばれたものだと勘違いした。
「ちょうどいい。こっちだ!」
医療スタッフと一緒に、周防天華を担架へ移す。
看護師が戸惑いながら尋ねた。
「古川様は……? こちらは古川小姐からの要請で伺ったのですが」
古川礼和が氷のように言い切る。
「妹のためだ。とにかく妹を診てくれ」
看護師はそれ以上、口を挟まなかった。
「朱那も大概だな」
古川礼希が鼻を鳴らす。
「天華があんな状態なのに、顔も出さない。……恩知らずの性悪だ」
古川礼人も苛立った顔でスマホを取り出した。
「俺が呼ぶ。病院に来いって言ってやる」
だが何度かけても繋がらない。礼人の眉間がさらに険しくなり、吐き捨てるように悪態が増えた。
担架の上でそれを聞きながら、周防天華の胸の奥はぬくぬくと満たされていく。
それでも表では、健気に首を振った。
「礼希兄さん、礼人兄さん……やめて。お姉ちゃんのこと、責めないで」
涙を浮かべ、か細く笑う。
「急には受け入れられないのも普通だよ。私がもっと優しくすれば、きっと……いつか、ちゃんと受け入れてくれるから」
震える声と潤んだ瞳が、あまりにも痛々しい。
古川礼希と礼人は目を合わせ、同じことを思った。
朱那より、天華のほうがずっと大人で、ずっといい子だ、と。
――一方、朱那は家で二時間以上待ち続けた。
高熱は容赦がない。骨の隙間まで煮え立つようで、息をするたび喉が焼ける。
「みず……みず……」
掠れた声は、誰にも届かない。
そして、夜が明けた。
翌朝。
ドアを蹴り破るような音で朱那は目を覚ました。
「妹が一晩中つらがってたのに、おまえは見舞いにも行かないで、まだ寝てるのか。姉としてどうなんだ!」
古川礼和だ。
大股で部屋に入り込み、冷たい声で責め立てる。
朱那は朦朧としたまま薄く目を開け、礼和の傲慢な視線を受けた。
その目に温度はない。不満だけ。
――どうして。
自分こそが古川家の実の娘で、実の妹のはずなのに。
彼らはどうして、ここまで自分をどうでもよく扱える?
周防天華が可哀想だから?
笑わせる。
朱那はもう、何も言いたくなかった。
死なずに済んだ。それだけで十分だ。
「返事をしろ!」
礼和が苛立ち、朱那の手首を掴む。
「起きろ。粥を作って、俺と病院へ行くぞ」
乱暴に引かれ、朱那はベッドから落ちかけ、うつ伏せのまま動けなくなった。
「……おい」
礼和がようやく異変に気づく。
掴んだ腕が熱すぎる。顔色も紙みたいに白い。
「どうした。まさかまた仮病か?」
眉を寄せる。けれど声だけが、わずかに沈んだ。
「出ていけ」
朱那は掠れ声で吐き捨てた。喉が裂けるように痛い。
次の瞬間、身体がふわりと浮いた。
礼和に抱き上げられ、耳元で焦った声がする。
「病院へ行く!」
朱那は口を開いたが、言葉にならないまま意識が落ちた。
……
聖心病院。
「急性のウイルス性インフルエンザです。40度まで上がってる。古川さん、家族は何をしてたんですか。もう少し遅ければ脳に障害が出てもおかしくない」
主治医の坂東昭巳が、険しい顔で告げる。古川礼和の友人の弟で、帰国したばかりの医学修士だ。
検査を終えると、坂東は堪えきれないように続けた。
「礼和さん、彼女が養女だとしても、体裁くらい取り繕ってくださいよ。虐待って噂されます」
古川礼和は言葉を失った。
坂東は不審そうに隣の古川礼希へ視線を移す。
「礼希、おまえはどう思う?」
礼希は複雑な顔で病床を見た。
朱那は目を覚ましている。それでも背を向けたまま、明らかに相手をする気がない。
礼希の胸に、重いものが沈んだ。
朱那が一晩も高熱で苦しんでいたなんて、想像もしなかった。
それどころか自分たちは、妹を看病しろと責めたのだ。
病室の空気が凍りつく。
そこへ、勢いよくドアが開いた。
古川礼人が駆け込んでくる。
「兄貴、礼希兄さん! 天華が目を覚ました。つらいって言ってる、早く来て!」
