第6章

古川礼人の顔には、誰の目にも分かるほどの喜色が浮かんでいた。だが、古川朱那の姿を見た瞬間――ぴたりと固まる。

「どういうことだ?」

眉を寄せ、詰めるように言った。

「古川朱那、おまえさ……そこまで芝居する必要あるか? 天華が具合悪いからって、おまえまで病人の真似とか。面白いと思ってるのか?」

「待てよ。……え、こいつが古川家の人間なのか?」

そのとき、坂東昭巳が勢いよく立ち上がり、兄弟三人を愕然と見回した。

「冗談だろ。俺、てっきり彼女のほうが「外の人」だと思ってたわ

死にかけの熱出してる子に、なんでそんな言い方ができる? おまえら全員、やばいって

周防天華のほうは大したことない。ちょっと驚いただけだ。少し落ち着けば済む話だろ

そんな大勢で張り付いて看病するような状態じゃない」

その言葉に、古川礼人も息を呑んだ。

青くなり、次いで白くなり――そしてようやく理解する。

なぜ長兄と礼希兄さんが黙っていたのか。なぜ顔色があんなに悪かったのか。

古川朱那が、本当に倒れている。

いつから?

まさか……天華と張り合っているだけじゃ、なかったのか。

「坂東先生……静かにしたい」

沈黙を貫いていた朱那が、ようやく口を開いた。

声が、重い。

若い娘の声というより、疲れ切った中年のそれに近い。

痛みも、失望も、そのまま音になっていた。

「……出ていけ」

坂東昭巳は何かを悟ったように、力なく言った。

「病人は休ませろ」

三兄弟は顔を見合わせ、言いかけては飲み込む。

そのとき、周防天華がやって来た。

「お姉ちゃん……お姉ちゃんも具合悪いの? 大丈夫? つらくない?」

看護師の手を借り、今にも倒れそうな顔を作ってみせる。

だが、その「作り物」は、朱那の本物の衰弱と並んだ瞬間、あまりにも薄っぺらかった。

古川礼和が天華の腕を取り、外へ促す。

「先に出よう」

天華は、それを「朱那を嫌っている」のだと受け取った。

あのクズの大げさな芝居なら、誰だって見抜いている――そう思い込んでいる。

「兄貴、待って」

天華は礼和の手を振りほどき、涙をにじませて礼和を見上げた。

「お姉ちゃん、どうしたの? 私が倒れたらお姉ちゃんまで倒れるなんて……私のがうつっちゃったのかな?」

心配しているふり。

けれど、誰の目にも分かる。これは「仮病だ」と周囲へ印象づける言い方だ。

古川礼和の目が、わずかに陰った。

周防天華を見つめながら、理解できないものを見るような困惑が滲む。

――天華は、朱那を本当の姉として慕っている。ずっと、そう信じていたのに。

「天華」

古川礼希が、沈んだ声で言った。

「朱那はウイルス感染だ。高熱もまだ下がってない」

「え……?」

天華の瞳に、信じられない色が走る。叫びかけて、喉で止めた。

そんなはずない。

あのクズは、ただの軽い風邪――その程度のはずだ。

けれど、すぐに冷静になる。

礼希は誰より朱那を嫌っている。その礼希が言うなら、本当だ。

天華は慌てて涙を拭い、健気な声を作った。

「じゃあ私、ここでお姉ちゃんを看病する……?」

一唱三嘆。

その掛け合いを聞いているだけで、朱那の頭の奥がじんじんした。嫌悪が溢れそうになる。

「はいはい、家族の方は一旦外へ」

坂東昭巳が朱那の気配を察したように、手で追い払う。

「患者は休まなきゃ。ここで騒ぐな」

ようやく、世界が静かになった。

朱那は、久しぶりに深く眠った。

――病室の外。

古川家の三兄弟は、なぜか立ち去れずにいた。

「兄貴……俺たち、今回は……やりすぎたかもしれない」

古川礼希が、ぽつりと言う。

「朱那、昔から身体弱かっただろ」

古川礼和は鉄青の顔で黙ったまま。

しかし、目の奥の後悔だけは隠せなかった。

古川礼人は壁にもたれ、病室の扉を見て、かすかに息を吐く。

「……確かに、やりすぎだ」

そして小さく付け足した。

「朱那、いつからあんなに意地っ張りになったんだ。自分で抱え込んで、俺たちに何も言わないでさ」

その一言で、廊下の空気が変わった。

礼人は唇を結び、それ以上は言わない。

どれほど時間が経ったのか。

沈黙を破ったのは、礼和だった。

「朱那は考えすぎる。結局、自分のことしか考えず、天華を受け入れようとしない」

冷たい理屈で自分を固めるように言う。

「だから……何か渡して宥めれば、元に戻る」

思い出す。

何を贈っても、朱那は目を輝かせ、恐縮して受け取り、必ず律儀に返礼まで用意した。

……簡単に懐柔できた。

礼希と礼人は視線を交わし、その案を悪くないと思った。

朱那は、少し甘い言葉をかければ、すぐ機嫌を直す。

だが天華は違う。あの子は不安が強い。ちゃんと寄り添わないといけない。

「先に天華を見舞う」

礼和が言う。

「朱那はあとだ」

三兄弟は即座に頷き、足を向けた。

――朱那が目を覚ましたのは、三時間以上が過ぎてからだった。

点滴はすでに終わっている。

身体にのしかかっていた重い鬱屈が、少しだけ薄らいだ気がした。

「おまえの家、どうなってんだよ」

坂東昭巳が薬を持って入ってきて、何気なく言った。

「外の子には優しくて、おまえには冷たいって……意味分かんねぇ」

坂東昭巳は天華の担当でもある。

さっき覗いた病室では、三兄弟が囲って、果物だの水だの、過剰なほど世話を焼いていた。

朱那のこことは、雲泥の差だ。

その「まっすぐな疑問」に、朱那は苦く笑う。

「私にも分からない」

淡々と答える。

「でも、もうどうでもいいです。坂東先生、薬を出してください。持ち帰って飲む」

「いや、おまえ……まだ――」

「いい。ここにいたくない」

朱那が譲らず、坂東昭巳は渋々退院の手続きをした。

朱那が去ったあと。

三兄弟はそれぞれ「贈り物」を抱え、病室へ向かった。

礼和の手には、天華が要らないと言ったぬいぐるみ。

「会っても、余計なことは言うな。調子に乗らせる」

礼希は院外で買わせた粥を提げている。少し冷めているが、朱那なら涙を流して喜ぶはずだ。

礼人はみかんを数個。

これまで与えすぎた。今後は甘やかしすぎない――そういう「躾」のつもりだった。

礼和が扉を押し開ける。

「朱那――」

言葉が、途中で途切れた。

病室は空っぽだった。

朱那の姿が、どこにもない。

礼希と礼人も中へ入った瞬間、同時に表情が凍りつく。

「坂東! 朱那はどこだ!」

礼人が坂東昭巳の執務室へ駆け込み、詰め寄った。

坂東昭巳は金縁の眼鏡を押し上げ、呆然と答える。

「とっくに退院したけど。……知らなかったのか?」

兄弟三人の手元を見て、坂東昭巳の顔に露骨な呆れが浮かんだ。

昨夜から天華の病室には、高級な贈り物が山ほど積まれている。

ブランドのバッグ、服、花――目が眩むほど。

それなのに朱那に持って来たのは、誰かのお下がりと冷めた粥とみかん?

笑えない冗談だ。

「俺たちに何も言わずに出たってのか……?」

礼人が歯を食いしばる。弄ばれたような屈辱が、胸の奥で膨らんだ。

「俺たちのこと、家族だと思ってないのかよ」

礼和はすでに朱那へ電話をかけていた。声は冷え切っている。

「戻って来い。プレゼントを用意した」

自分から電話した。

朱那は喜んで、尻尾を振って戻ってくる。

今までずっと、そうだった。

――だが。

「……ツーツーツー」

通話は切れた。

切られたのだ。

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