第7章

オフィスは、しんと静まり返っていた。

古川礼和の顔色は最悪で、手にしていた人形がぽとりと床に落ちる。

「……俺の電話を切るなんて、反抗かよ!」

古川礼希が歯ぎしりする。

「前はそんな真似、できなかっただろ。甘やかしすぎたんだ!」

「そこまで身の程知らずなら、もう放っておけ」

古川礼人は手にしていた果物をゴミ箱へ放り投げた。

……

その頃、古川朱那はもう荷物をまとめ終えていた。

外で暮らす。そう決めた。

スーツケースのジッパーを閉めて、階段を下りる。

長年ここにいたはずなのに、持ち物は驚くほど少ない。身分証、日用品、数着の服――せいぜいスーツケース一つ。

それ以外は、要らない。

彼女が別荘の外へ出て配車アプリを開いた、そのとき。

黒いベントレーが目の前で止まった。古川礼和の愛車だ。派手さはないのに、押しの強い存在感だけがある。

朱那は関わりたくなくて、すっと歩みを進めた。

だが、もう遅い。礼和たちは車を降り、こちらへ向かってきた。

「何の真似だ。病院に送らなかったくらいで家出か?」

礼和が鼻で笑う。嘲りが声に滲んでいた。

「いい歳して、問題があれば家出。今回は俺たちが折れると思ってるのか?」

礼希は朱那を頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように見て、口元を歪める。

礼人はさらに容赦がない。

「古川朱那。外では足並みを揃えろって教えたよな。今日、病院で俺たちに恥をかかせて、謝りもしない。挙げ句これか? いい加減にしろよ」

一方的な非難を浴びても、朱那の目も心も揺れなかった。

スマホを見る。配車の到着まで、あと数分。

どうせ出ていくのだ。言い返す労力すら、もったいない。

「おい、話してるだろ。何その態度」

礼和が苛立って一歩踏み込み、朱那のスマホを奪い取った。

画面の地図を見た瞬間、礼和の表情が変わる。指が迷いなく動き、キャンセルを押した。

「返して」

朱那は手を伸ばし、氷のような目で言った。

礼人は、その目を見たことがなかった。一瞬で言葉を失う。

――変わった。妹が。

「……いい。落ち着け」

礼和も異変を感じたのか、間に割って入った。

「中へ戻れ。ここで揉めてどうする。病み上がりだから、病院で恥をかかせた件は今回は不問にする。だが戻ったら、天華とちゃんとやれ」

礼和は朱那の肩を押し、連れ戻そうとする。

朱那はその腕を振り払った。

「戻らない」

そして礼人の隙を突き、奪われたスマホを取り返す。視線を落として、無言で再び配車を呼んだ。

三人の苛立ちが、目に見えて膨らんだ。

そこへ、車の向こうから周防天華が降りてくる。

「お姉ちゃん……昨日、兄さんたちが面倒を見てくれなかったこと、まだ怒ってるの?」

天華は涙を浮かべたまま、言葉を丁寧に選ぶように続ける。

「全部、私のせい。私、身体が弱いし、親もいないから……兄さんたちに守ってもらうしかなくて。お姉ちゃん、私たち家族なんだから、帰ろう?」

天華は朱那の腕を掴んで揺らした。泣きそうな顔。周囲から見れば、朱那がまたいじめているようにしか映らない。

吐き気がこみ上げる。

朱那は腕を引き抜き、露骨に嫌悪を滲ませた。

「うるさい。どっか行って」

「正気か!」

礼和の顔が歪む。ふらついた天華を支えながら、朱那へ怒鳴った。

「天華に謝れ!」

怒りで醜く歪んだその整った横顔が、朱那には滑稽で仕方なかった。

古川家の跡取りが、どうしてこんなにも簡単に、周防天華に踊らされるのか。

考えるのも馬鹿らしい。

「そんなに彼女が好きなら、場所を空けてあげる」

淡々と言い捨てて、朱那は背を向けた。

「待て!」

三人の声が重なる。

朱那は一歩も止まらない。背筋を伸ばし、軽い足取りで歩き続ける。

礼人が歯を噛み、低く吠えた。

「三つ数えるぞ! 戻らないなら二度と古川家の門をくぐるな! 三、二――」

「どうせ脅しだ!」

「行けよ。戻るな!」

兄弟三人は、朱那が泣きついて戻ってくると信じて疑わない。

その背中を睨みつけ、穴が開くほどに。

周防天華は胸が震えた。興奮で泣きそうになるほど。

あの頑なな背中を、まばたきもせず見つめる。

(まさか、こんなに意地を張るなんて。ほんと馬鹿。ちょっと手を出せば勝手に消える)

(最高。これでこの家の「女の子」は、私だけ)

数分後、朱那の姿は完全に見えなくなった。

胸が軽い。世界が、初めて自由に息をしているみたいだった。

まずは親友の須藤若菜のところで数日しのぎ、仕事と部屋を探して、古川家と完全に切る――。

そう思った、その矢先。

別の車が目の前で止まった。黒服の男が二人降りてきて、道を塞ぐ。

「古川嬢、乗ってください。先生がお待ちです」

古川邦夫の人間だ。

助手席の窓が下り、古川邦夫の冷たい顔が覗いた。

「乗れ」

声は低く、不機嫌を隠しもしない。

その声を聞いただけで、朱那の心臓がきゅっと縮む。

兄たちとは違う。古川邦夫は、かつて本当に朱那を可愛がった。

けれど今は――周防天華の父親だ。

朱那は邦夫をじっと見つめ、そして背を向けた。

「ふざけるな!」

邦夫は予想外だったのか、苛立って命じる。

「捕まえろ!」

左右から腕を掴まれ、朱那の身体が宙に浮く。動けない。

「帰らない」

朱那は顎を上げ、睨み返した。

「足は私のもの。縛って連れ戻しても、私はまた逃げる」

「天華のせいか?」

邦夫が冷笑する。

「心が狭いな」

朱那の血が沸いた。

「彼女を娘だと言うなら、私はあなたを父親だと認めない!」

腕を乱暴に振りほどこうとし、スーツケースを引いて走り出す。

「止めろ!」

邦夫が頭痛でもこらえるように顔をしかめ、自分でも車を降りた。

すぐに朱那は取り押さえられ、引き戻される。

それでも、目は折れていない。頬の筋をきゅっと噛み締めたまま。

邦夫はその目を見て、わずかに驚いた。

この娘に、こんな骨があったのか。

――母親譲り、か。

邦夫はしゃがみ込み、朱那の肩を掴んだ。

「……母親の形見も要らないのか?」

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