第8章
言うことを聞かない娘を手玉に取るには、彼女がいちばん大切にしているものを突きつけるしかない。
――母親だ。彼女にとっての急所。
その言葉に、古川朱那は息を呑んだ。
信じられない、という顔で見上げる。
「……どういう意味。母が私に何を残したの? なんで今まで一度も言わなかったの?」
「おとなしくしてりゃ、渡してやる」
古川邦夫は立ち上がり、車へ乗り込む。
「自分で考えろ」
そう言い捨てて手をひらりと振り、ボディガードに合図した。掴まれていた腕が、ようやく解放される。
古川朱那は、母に遺品があるなんて一度も聞いたことがない。
けれど――欲しい。
母は、彼女に残った唯一の拠りどころなのだから。
しばらくその場に立ち尽くし、やがて身を翻す。すると古川邦夫はすでに後部座席のドアを開けさせていた。最初から、彼女が折れると見越していたのだ。
古川朱那はゆっくり車に乗り込む。
「母は何を残したの。いつ渡すつもり?」
「最近のおまえは従順じゃない。俺が満足したら考える」
古川邦夫は黒縁眼鏡を指で押し上げた。底知れない瞳が、すべて掌の上だと言わんばかりに冷たく光る。
車はほどなく古川家の別荘へ到着した。
古川朱那がみすぼらしくスーツケースを引き、古川邦夫の後ろをついて戻ってくる。その姿を見た瞬間、リビングで沈黙していた面々が一斉に立ち上がった。
周防天華が真っ先に気づき、目を見開く。
(このクズ……!)
やっぱりだ。こいつが大人しく消えるわけがない。どうせ兄たちを心配させたいだけ。注目を集めたいだけ。
(最低)
「お兄ちゃんたち、見て。お姉ちゃん戻ってきた。きっと……私たちのこと、やっぱり大事なんだよ」
周防天華は天華らしい甘い笑みを貼りつけ、無邪気に喜ぶふりをした。
「ほらな。やっぱり見せかけじゃん」
古川礼人が軽薄に笑って言う。さっきまでの陰りは、嘘みたいに消えていた。
古川礼和と古川礼希は何も言わない。ただ視線を交わし、互いの目にある嘲りを確認して安心したように肩の力を抜く。
そうだ。古川朱那は結局、家族の関心が欲しい子ども。ここから離れられるはずがない。
「戻ったなら、これからは天華とちゃんとやれ。勝手な真似はもうするな」
古川礼人は両手をポケットに突っ込んだまま歩み寄り、いかにも寛大ぶって言葉を継ぐ。
「一回二回は許してやる。でも三回目は――おい、俺が話してんだろ。何その態度?!」
古川朱那は客厅に入っても、誰の顔も見ない。そこに人がいるかのようにさえ振る舞わず、真っすぐ階段へ向かった。
古川礼人の言葉など、耳に入っていない。
当然、礼人はかっとなった。
だが朱那は振り返りもしない。
彼女が上階へ消えていく背中を見送るうちに、礼人の整った顔がみるみる鉄青に変わる。吐き出しかけた罵声を、歯ぎしりして飲み込んだ。
(このクソ女……どんどん図に乗りやがる)
「礼人兄さん、怒らないで。あとで私、お姉ちゃんとちゃんと話してみるね」
周防天華がにこやかに宥めると、礼人の胸の火はすっと鎮まった。
(やっぱり天華がいちばんだ。あの女とは違う)
古川朱那は部屋に入ると、すぐ鍵をかけ、真っ先に親友の須藤若菜へ連絡した。
事情を話すと、若菜は「焦って来なくていいよ」と言い、ついでに周防天華を遠慮なく罵った。
『あんたんちの男ども、頭イカれてない? なんであんな女に転がされてんの。意味わかんないんだけど……』
呆れたように舌を鳴らす若菜に、朱那は両手を広げる。
「もう、私には関係ない」
若菜は唇を尖らせ、悔しそうに眉を吊り上げた。
『ねえ、芸能ニュース見た? 佐島明監督が、あの中華武侠ドラマをリメイクするんだって。あんた、受けてみなよ
学校じゃ何本も撮ってたのに、自社に入ってから全然じゃん。独立したほうがいいって』
画面の向こうで若菜が勢いよく起き上がり、顔のパックがずり落ちかけた。
古川朱那は小さく頷く。
「私もそう思ってた。辞めるつもりで人事に聞いたら……そもそも、私の入社記録がなかった」
自嘲が漏れる。勝手に期待していただけだったのだ。
なら、なおさらいい。さっさと縁を切れる。
『ひどすぎ!』若菜が憤る。『よし、試験までちゃんと準備しよ。私も一緒に行くから!』
通話を切ると、朱那はすぐ佐島明の助手に連絡し、オーディションは3日後だと確認した。
若菜に言われなくても行くつもりだった。
演じるのが好きだ。前の人生、蛇の一件で入院していたときも、佐島明の助手が声をかけてくれた――けれど、その機会は周防天華に奪われた。
周防天華はその武侠ドラマの主演で名を上げ、眩しい世界へ駆け上がった。
自分は古川家の陰湿な地下で、捨てられたまま息を潜めるだけ。
――二度と、あんな目には遭わない。
周防天華に脊梁を踏ませて、上へ登らせたりしない。
しかも今回は、佐島明本人から連絡が来た。過去作を見て期待している、と。資料まで送ってくれ、事前に準備してほしいと言う。
古川朱那は恐縮しきりで、必ず応えると何度も約束した。
それから2日間、朱那は部屋に籠もって稽古に没頭した。
作品名は『侠女無双』。女乞食の少女が天下一の門派の掌門に拾われ、武を学び、弱きを助け世を正していく物語。
主人公・燕无双は器が大きく、侠気が要る。中国の武侠は日本の武士と違う。今の朱那には、明らかに挑戦だった。
資料を漁り、同系統の映像を観て、解釈をまとめ、人物の小伝まで書き起こす。
――だが、三日目の朝。
静けさは、ノックの音で破られた。
「お姉ちゃん、体調どう? 朝ごはん一緒にって、兄さんたちが。……それに、姑父もいるよ」
ドア越しに響く周防天華の声。
朱那は降りるつもりがなかった。だが「姑父」と聞いた瞬間、胸の奥がひくりと動く。
母の遺品が欲しい。
ダイニングには古川邦夫と、三人の息子が座っていた。
朱那が入ると、視線だけが一斉に刺さる。誰も言葉を発しない。
朱那が「拗ねている」時間が、すでに48時間を越えている。彼らにとって、それが異常だったのだ。
朱那は席に着くなり古川邦夫を見た。
「父さん。母の遺品、いつくれるの?」
「天華に預けた」
古川邦夫は淡々と言い、続けて吐き捨てる。
「妹と仲良くしろ」
古川朱那の頭の中が、ぶん、と鳴った。
そのとき周防天華が立ち上がり、左腕の袖を捲る。青緑に艶めく翡翠のバングル。
「お姉ちゃん、姑媽が宝石箱を残しててね。このバングルもその中のひとつ。綺麗だから、ちょっと借りてつけてるだけ
……嫌じゃないよね?」
さらりと言いながら、周防天華の秋水のような瞳が朱那の顔を撫でた。そこに宿るのは、隠しもしない挑発。
「返して!」
古川朱那の理性が弾けた。
「母のものに触る資格がどこにあるの!」
周防天華はわざとらしく目を丸くする。
「え……お姉ちゃん、何のこと?」
「古川朱那、いい加減にしろ」
古川礼和が冷えた声で言い放つ。
「天華に謝れ」
古川朱那は一切聞かず、周防天華の腕へ手を伸ばした。翡翠のバングルを奪い取るために。
