第9章

周防天華は、最初からこうなると分かっていたみたいに、わざとらしく息を呑んで叫び、体勢を崩してそのまま倒れ込んだ。

手首のバングルがローテーブルの角に当たり――

ぱんっ。

乾いた音がしたと思った瞬間、翡翠の輪は三つに砕け散った。

「お姉ちゃん、どうしてそんなことするの……! 私のことなんてどうでもいいならせめて、叔母さまの形見くらい大事にしてよ……!」

周防天華はぱちぱちと瞬きをして、すぐに泣き出す。涙が睫毛に溜まり、いかにも傷ついた顔。

古川朱那はその場に立ち尽くしたまま、割れたバングルを呆然と見つめていた。胸の奥が、針でえぐられたみたいに痛い。

――何が起きたのか理解するより先に、頬に凄まじい衝撃が走った。

「この親不孝娘が! 妹に向かって何だ、その態度は! 狼心狗肺にもほどがある!」

古川邦夫の怒鳴り声は雷みたいだった。

朱那はよろめいて床に転がり、右手のひらが、ちょうど破片の上に落ちる。

ぎり、と鋭い角が皮膚を裂き、血が滲んだ。焼けるような痛みが、心臓まで突き刺さる。

頬も熱い。頭の中も、周りの声も、ぐちゃぐちゃに絡まって離れない。

古川邦夫と古川礼和たちがまた自分を責めているのは分かっている。けれど今の朱那の視界には、床の破片しかなかった。

泣くまいと奥歯を噛みしめ、震える指で欠片を拾い集める。まるで宝物を扱うみたいに丁寧に、そっとポケットへ入れた。

滲んだ視界の向こうに、母のやさしい笑顔が浮かぶ。

――母が生きていてくれたら。

こんなふうに踏みにじられることも、なかったのに。

朱那はゆっくり立ち上がり、背を向けて去ろうとする。

その腕を、周防天華が掴んだ。

「お姉ちゃん、ごめんね……私のせいで、お姉ちゃんが……」

「離して」

朱那は氷みたいな声で言い、鋭い視線を向けた。

周防天華はびくっと肩を震わせ、反射的に二歩下がって古川礼和の胸に逃げ込む。

古川礼和の目が、複雑に揺れてから怒りに染まった。

「古川朱那、いい加減にしろ。俺たちの目の前で天華をいじめるなんて……反省が足りないどころじゃない!」

朱那は振り向いた。胸の奥に、言葉にしきれないものが渦を巻く。言いたいことなら山ほどある。悔しさも、惨めさも。

けれど分かっていた。何を言っても、笑いものになるだけだ。

――だったら、もういい。

「……もう、いらない」

朱那は気のない笑みをひとつ落として、階段へ向かった。

その背中を見つめながら、古川礼和の胸に、珍しく針のような後悔が刺さる。

なぜだろう。自分は何かを、取り返しのつかないほど間違えた気がした。

だがすぐに、首を振って打ち消す。朱那が悪いのだ。自分はただ躾けているだけ。道を踏み外させないため――。

「兄貴……お姉ちゃん、きっともっと私のこと嫌いになった……」

周防天華が泣きながら言うと、古川邦夫が冷たく吐き捨てた。

「構わん。今まで甘やかしすぎた」

朱那は部屋に戻った途端、また熱がぶり返した。明日のオーディションを潰したくなくて我慢したが、結局ふらついて病院で点滴を受けることになる。

見舞いに来た須藤若菜は、朱那の顔を見た瞬間、丸い頬を青くして叫んだ。

「ちょっと待って、あり得ないんだけど! あんたの家の連中、ほんとに人間? 殴るとか……どういう神経してんの!」

朱那は隣の席を軽く叩き、座るよう促す。

「平気。もう慣れた」

自嘲気味に息を吐き、続けた。

「これから私は「家なし子」だね。だから若菜、あなたが私の家族」

「もちろん!」

若菜は胸を叩く。

「私が食べるなら、あんたも食べる! 一口だって残さない!」

朱那の母と須藤奥さんは親友だった。須藤奥さんは朱那のことも本当に可愛がってくれていた。

母が亡くなったとき、須藤奥さんは何度も気を失って、「若菜が朱那を守って」と繰り返した。若菜は、その言葉どおりに守ってきた。

朱那は、まだひとりじゃない。そう思えるだけで救われる。

ふと朱那は思い出して、低い声で言った。

「ねえ。金髪の彼氏、早く切ったほうがいい。あれ、ろくでもないよ」

若菜の顔が固まり、気まずそうに笑う。

「え……なんで、私が橋本共司とまだ切れてないって分かったの」

朱那は答えず、眉を吊り上げた。

「まだ続けるなら、奥さんに言うから」

若菜は頭を掻いて降参する。

「分かったって……時間ちょうだい。で、オーディションは? 佐島さんの作品って、かなり箔が付くじゃん」

朱那が口を開こうとした、そのとき。

点滴室の入口のほうに、見覚えのある影がふらりと揺れた。

振り向けば――周防天華。

どこまで聞いていたのか。

周防天華は平静を装って近づいてくる。

「お姉ちゃん、私……」

「近寄んな!」

若菜が跳ね起き、腰に手を当てて睨みつけた。

「そういう女、大っ嫌いなんだよ。吐き気する。消えろ、今すぐ」

「……」

周防天華は言い返せず、引き下がった。

車に戻った彼女は、怒りで顔色を青黒くしながら、さっきの会話を反芻する。

古川朱那が、佐島明の作品を受ける?

(あのクズが? 主役を? 笑わせないで)

主役の席は、自分のものだ。自分が証明するための舞台だ。

周防天華は真っ先に古川礼和のもとへ向かった。

古川家は世界中に手を伸ばし、あらゆる業界に顔が利く。傘下の芸能会社も多く、佐島明とも付き合いが深い。

「兄貴……さっきお姉ちゃんのお見舞いに行ったんだけど、やっぱり会ってくれなかった」

周防天華は言葉を選びながら、古川礼和の執務室へ入る。古川礼和はすぐ秘書に茶を持って来させた。

天華は飲む気になれず、形だけの涙を二、三粒落としてから本題へ滑り込む。

「お姉ちゃん、ここ数か月なにも結果出してないのに、急に佐島さんの作品を受けるって言い出したの

受かればいいけど、落ちたら……外に笑われるの、兄さんたちと叔父さんの顔だよね

それに、私も受けるの。私はずっと前から準備してきたし……お姉ちゃんは、私に勝ちたいだけだと思う」

古川礼和は柔らかく笑い、天華の頭を撫でた。

「分かった。天華は才能がある。心配するな。望みは叶えてやる」

周防天華の顔が、一気に花が咲いたみたいに明るくなる。目尻が弧を描いて、嬉しさを隠しきれない。

――その夜。

朱那は点滴のあと薬も飲み、体は少し楽になった。念のため、夜10時には須藤若菜の大きなベッドに潜り込み、眠ろうとする。

だが、どうしても眠れない。

朱那は起き上がり、佐島明の助手にメッセージを送った。明日の面接、何人来るのか。

返ってきた返事に、血の気が引く。

――自分の名前が、リストから消えていた。

「……え? どうして」

朱那が震える指で打ち返すと、助手も驚いた様子で返してくる。

「こちらも詳しくは……来ないって連絡があったのかと思ってました」

朱那の胸の奥が、すとんと冷える。

周防天華だ。いや――古川礼和。

朱那はすぐ佐島明に電話を入れる。そこで聞かされたのは、古川礼和の意向だという事実だった。

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