第3章
彼らが決心した、その矢先だった。
悠真が突然駆け込んできて、悲痛な声を上げた。
「お母さん、悠真を置いていかないで!これからはちゃんと言うこと聞くから、ね?」
彼は美月と大介の会話を盗み聞きし、美月がしばらくの間、別の子供に会いに行くということだけを断片的に知ってしまったのだ。
別の子供?
悠真は今にも泣き出しそうなほど焦っていた。
「お母さん、悠真、もうわがまま言わないから。だから、他の子のところへ行かないで……」
悠真の悲しげな様子に、美月は優しく彼の頬を撫でる。
「お母さんは悠真を置いていったりしないわ。悠真は永遠に、私の一番大切な宝物よ。ただね、お母さんにはもう一人子供がいて、すごく長い間離れ離れだったの。今回は、その子の誕生日を祝いに行ってあげたいの。誕生日が終わったら、すぐに帰ってくるから」
悠真はほっと息をついたが、それでも美月と離れるのは名残惜しいようだった。
「じゃあ、僕も一緒にお兄ちゃんの誕生日をお祝いしに行ってもいい?」
美月が躊躇していると、システムが先に承諾した。
『問題ありません。子供が一人増えたところで支障はないでしょう。一ヶ月の期限が来たら、私を呼んでください。すぐにあなたたちを元の世界へお返しします』
美月は仕方なく、悠真の手を引いて頷いた。
「それじゃあ、お願いするわ」
しかし、大介はどこかまだ落ち込んでいるようだった。彼はふと周りを見回し、何か見えないものを探している。
「システム、そこにいるのは分かっている」
大介は虚空に向かって言った。
「一つだけ約束してほしい。万が一、不測の事態で一ヶ月後に戻れなくなったとしたら、私をその世界へ送ってくれ」
彼の眼差しは、ひときわ固い決意に満ちていた。
「私が必ず、二人を見つけ出す。そして、連れ戻す」
直後、システムは美月と悠真を本の中の世界へと送り届けた。
光が消え去ると、安田美月は見覚えのあるマンションのエントランスホールに立っていることに気づいた。藤井悠真は彼女の手をしっかりと握りしめ、好奇心旺盛に周りを見渡している。
「お母さん、ここが昔住んでた場所なの?」
悠真が小さな顔を上げて尋ねた。
美月は頷き、息子の髪を優しく撫でる。
「ええ、そうよ」
彼女が周りを見渡すと、全てが七年前に去った時と寸分違わず、ロビーの観葉植物のアイビーまでもが同じ形を保っていた。
システムの音声が彼女の耳元で響く。
『美月さんの便宜のため、以前お住まいだったマンションをあらかじめ借り上げておきました。七年間、当時のまま維持してあります。ピアノや録音機材も全て無傷です』
美月は悠真を連れてエレベーターで上がり、部屋のドアを開けると、懐かしい木の香りが鼻腔をくすぐった。リビングルームの中央には、彼女が最も愛したピアノが静かに主人の帰りを待っていた。悠真はすぐに駆け寄り、小さな手でそっと鍵盤に触れる。
「お母さん、弾いてもいい?」
「もちろんよ」
美月は微笑んだが、彼女の視線はピアノの傍に置かれた写真に注がれていた――それは彼女と、生まれたばかりの神谷悠太とのツーショットだった。
記憶が潮のように押し寄せる。初めて悠太を抱き上げた時の感覚、その小さな命が腕の中で丸まっていたこと、彼のために初めて弾いた子守唄。三歳の悠太が彼女の膝に座り、小さな手で彼女が弾く簡単なメロディを一生懸命真似していたこと。
『お母さん、僕、お母さんと一緒に音楽を作りたい』
幼い悠太の声が、今も耳元で響くかのようだ。
あの頃の悠太は、あんなにも彼女を頼り、愛してくれていた。ただ、彼が少しずつ成長するにつれて全てが変わり、どんな人間が自分の音楽の道を切り拓く助けになるのかを理解し始め、ついには利益と母親との間で「正しい」選択ができるようにさえなってしまった。
美月は深く息を吸い込み、思考を現実に引き戻した。
「悠真、近くの音楽公園に行ってみない?」
悠真は興奮して頷き、二人はすぐにマンションを出た。
通りは相変わらず賑やかで、ストリートミュージシャンのパフォーマンスが悠真の注意を引いた。彼は好奇心から足を止め、サックス奏者がジャズを演奏するのを見つめている。
「お母さん、上手だね!」
悠真の目がきらきらと輝いていた。
美月は微笑みながら息子の手を引いて先へと進んだが、心の中では神谷悠太のことばかりを考えていた。
彼は今、どんな風になっているのだろう?背はどれくらい伸びたかしら、すっかり変わってしまったかな、私に会うのを楽しみにしてくれているだろうか?
音楽公園の入り口まで来た時、美月は突然自分の名前を呼ばれてはっとした。
「美月!本当にあなたなの?」
振り返ると、そこにいたのはかつての同僚である佐藤明子で、隣には十四歳くらいの女の子を連れていた。
「明子、久しぶり」
美月はなんとか微笑みを絞り出した。
佐藤は驚いて彼女を上から下まで眺め回す。
「この数年、どこに行ってたの?業界じゃみんなあなたの行方を噂してたのよ!ヨーロッパに留学したとか、引退したとか」
美月は家庭の事情だと曖昧に説明しつつ、藤井悠真を紹介した。佐藤も彼女に娘の千夏を紹介してくれた。
「そうだ、来月新人音楽祭があるんだけど、絶対に見に来てよ」
佐藤は熱心に誘ってきた。
「あなたの作品スタイルはすごく独特だから、みんなあなたの復帰を心待ちにしてるのよ」
美月は内心で葛藤した。この世界に滞在するのは一ヶ月だけ。主な目的は神谷悠太を助けることだ。
「考えておくわ。今回は私用で戻ってきただけだから」
彼女は遠回しに答えた。
悠真が待ちきれなくなり、美月の手を引っ張った。
「お母さん、あれで遊びたい!」
彼は公園の中央にある遊具を指さした。
「千夏に悠真くんを連れて行ってもらいなさいよ。ここは安全だし、公園にいるのは顔見知りばかりだから」
佐藤は微笑んで言った。
美月は少し躊躇したが、最終的に頷いて同意した。千夏が悠真の手を引いて遠ざかっていくのを見ながら、彼女と佐藤はベンチに腰を下ろした。
「本当のこと言うとね、美月。あなたがいなくなったこの数年、神谷さん、ずっとあなたを探してたのよ」
佐藤は声を潜めて言った。
「みんな二人の関係は知ってたから。公にはしてなかったけど……」
美月の心臓がどきりと跳ねた。
「神谷亮……彼は、元気にしてる?」
「仕事はすごく成功してるわ。でも、それ以外の変化はあまり良くないみたい。それに、二人の息子さんのことだけど……」
佐藤が言い終わらないうちに、彼女の携帯が突然鳴った。電話に出ると、その表情はすぐに強張る。
「え、何ですって?」
電話を切った後、佐藤は焦った様子で美月に言った。
「今、千夏から電話があったの。悠真くんが、男の子と喧嘩してるって!」










