第10章
交渉室の外には、簡易のソファスツールが一脚置かれていた。
小林暁が打ち合わせを終えると、室内のアシスタントが先回りしてドアを開ける。古崎様が先に出て、暁はその後ろに続いた。
古崎様はまだ話の途中だった。
「エリスさん、今回のプランはうちとしても……」
だが言いかけたところで、ふっと言葉が途切れる。小林暁が彼を見上げると、古崎様は前方を見つめたまま――何かを見つけた瞬間、仮面でも付け替えたみたいに満面の笑みに変わった。
しかもその笑みには、どこか媚びが混じっている。
「ど……」
問いかけながら同じ方向へ目を向けた、その瞬間。喉をぐっと掴まれたように息が詰まり、声が胸の奥で潰れた。
崎原時男が、そのソファスツールに背筋を正して座っていた。
黒の織り柄スーツは動きに合わせてわずかに皺を刻み、革靴は鏡みたいに磨き上げられている。塵ひとつない。
ひとりきりなのに、場を支配する圧だけは十分すぎるほどだった。
「崎原様!」
古崎様は勢いで近づき、相手に届く前から腕を差し出す。
崎原時男は立ち上がりもしない。古崎様の挨拶に、気だるげに手を上げて応じた。
「……誰だ」
視線が後ろから前へ滑り、古崎様の顔で止まる。
「万興グループの古崎博です!」古崎様は笑顔で名乗り、相手の機嫌を探るように目元をうかがった。「崎原様もエリスに御用で?」
また、エリス。
崎原時男は改めて小林暁を見た。暁は目が合う寸前、反射みたいに視線を逸らす。
あまりにも素早い。――関わりを恐れている、と言わんばかりに。
崎原時男は舌先で頬の内側を押し、目を細めた。
「俺はエリスなんて知らない」
古崎様はそれを気にも留めず、くるりと頭を切り替える。
「それにしても崎原様、どうしてこちらへ?」
このスタジオは小さいが、評判は侮れない。わざわざ社長自ら足を運ぶとなれば、新製品のデザイン案件か――。
その瞬間、崎原時男の視線が小林暁へ突き刺さった。ひどく侵略的で、息苦しいほどの圧。
その目を向けられるのが、小林暁は何より苦手だった。
暁はひとつ息を吸い、古崎様へ微笑みかける。
「古崎様、私はこれで失礼しますね。あとはごゆっくり」
礼儀正しく、目立たない距離感。
それから崎原時男へも、形だけの笑みを向けた。職業スマイルが露骨すぎて、自分でも苦い。
「崎原様、お先に」
まるで初対面みたいな他人行儀。背を向ける動作も迷いなくきっぱり――けれど脚の怪我のせいで、歩みはどうしても片足を引きずった。
崎原時男の視線が、しばらく彼女の背中に絡みつく。古崎博の声がまた響いて、ようやくその目が戻った。
古崎博は相変わらず愛想笑いを貼り付けたまま、崎原時男が自分を見たとわかると、慌てて口を開く。
「もし崎原様、何かデザインのご用命がありましたら、どうぞ遠慮なく! 業界トップのデザイナーを必ず手配いたします!」
普通なら、その流れで曖昧に名刺交換でもして関係を繋ぐ。
だが崎原時男は違った。
立ち上がる。190センチ近い背丈が迫って、空気が重くなる。彼はネクタイを軽く引き、淡々と言った。
「気遣いは要らない」
冷淡で、線を引く声。
崎原時男が人情に疎いのは周知の事実だ。古崎博は怒りもせず、ただ笑って引いた。
「はいはい、承知しました。それでは崎原様、お忙しいところ失礼いたしました。私はこれで」
古崎博は早々に去っていく。
崎原時男は、小林暁が消えた廊下のほうへ歩き出した。
スタジオ内には作業スペースがいくつもある。ひとり探すだけでも案外面倒だ。
「小林暁はどこだ」
近くにいた女を適当に呼び止める。
成田七海は、その名前が突然出たことに一瞬固まり、振り返って相手の顔を見た途端、眉を寄せて肩をすくめた。
「さあ。うちには小林暁なんていませんけど」
わざとらしい。腹が立つ類の顔。
崎原時男は女からこんな態度を向けられること自体が稀で、眉間に皺が深く刻まれた。不快感が隠しようもない。
秘書も護衛も休憩室側に待たせている。間に入る人間がいない分、苛立ちを飲み込みながら口を開くしかなかった。
「……エリスだ」
ルールに合わせた呼び方をしてやったのに、返ってくるのは同じ温度の拒絶。
「予約は? 予約なしは会えません」
崎原時男の目が沈む。奥歯がぎり、と噛み締められた――そのとき、左手の部屋の扉が開いて、顔がひょいと覗いた。
小林暁だった。
「崎原時男」
呆れたような声音。暁は成田七海へ警告するように目をやり、それから崎原時男に言った。
「入って。……いいから」
男はその作業室へ足を踏み入れる。
広くはない空間。床の隅には本と雑多な物が積み上がり、窓際の机には数枚のラフ。隣にはイーゼル、途中まで塗り進めた水彩画。
デザイナーの私室。客を通す場所ではない。だから椅子も一脚しかない。
小林暁は髪をまとめ、うなじを晒していた。昨夜の赤い痕が、ハイネック気味の杏色のニットの下にうっすら浮き沈みしている。
崎原時男の視線は真っ先にそこへ落ちた。大半は隠れている――それが、気に食わない。
「何しに来たの」
小林暁はドアを閉め、部屋の奥へ歩く。小腿の痛みがまだ執拗に刺した。
崎原時男の目が、その傷めた脚に一瞬止まる。それから部屋を見回し、低く言った。
「これが、お前の仕事か」
小林暁は眉をひそめ、イーゼルの向こうに腰を下ろした。
「どうしたの。……また連れ戻しに来た?」
崎原時男は当然のように机の椅子を引き、座る。未完成の水彩に目を走らせてから、ぽつり。
「よく隠してたな」
大した含みのない一言のはずなのに、小林暁の手元がわずかに止まった。胸のざらつきを押さえ込み、声の調子だけは崩さない。
「隠してない。小林ゆきは、こんなの描けないだけ」
崎原時男の表情が、ほんの一拍だけ固まった。視線が静かに研ぎ澄まされる。
「替え玉なんだから、設定を守るのが私の仕事でしょ?」
小林暁は口元に冷笑を浮かべ、筆を滑らせる。久しぶりに、ほんの少しだけ気分が晴れた。
空気がぴたりと固まった。
互いに何も言わない。ただ、相手の呼吸音だけが妙に耳につく。
コンコンコン。
ノックの音。
凝り固まった空気が、ようやく動き出した。
入ってきたのは崎原時男の秘書だった。暁は顔を見たことがある程度で、苗字が蒋だということしか知らない。
「崎原様」
羽村秘書が、牛皮の小さな紙袋を差し出す。
紙袋は机の上へ置かれた。
「奥様」
羽村秘書は小林暁にも軽く会釈し、静かに退室する。
袋が気になって視線をやった瞬間、崎原時男がびりっと包装を裂き、中身を一気に机へ出した。
小瓶や軟膏、包帯。傷の処置一式だ。
小林暁は目を瞬かせ、反射的に相手を見た。どこにも怪我など見当たらない。
「右脚だ」
崎原時男はヨードの綿棒を開け、暁を見た。
――自分に塗る、ってこと?
あり得ない。小林暁が状況を飲み込む前に、ズボンの裾が押し上げられ、消毒液の染みた綿棒が傷口へ触れた。
つん、とした痛みが一気に意識を引き戻す。
脚は男の膝の上。靴底がスーツのパンツを擦り、灰色の汚れを残した。
小林暁は反射的に引っ込めようとするが、崎原時男が足首を掴む。低い声。
「我慢しろ」
優しい手つきではない。それでも胸の奥が、かすかに震えた。
暁は深く息を吸い、唇を結んで俯く。自分の弱さを心の中で罵る。
――情けない。
「小林ゆき、助けないと思ってるの?」
小林暁は吐息混じりに言い、どうにかその動揺から距離を取ろうとした。
崎原時男の包帯を巻く手が止まる。眉を寄せ、顔を上げた。
「……どういう意味だ」
怒っている。そう察して、小林暁は即座に口を閉じた。
崎原時男が追及しかけた、そのとき。
着信音が鳴った。
「若様、小林さんが階段から落ちました!」
