第3章
小林暁は崎原時男の顔色をうかがい、いっそう冷えた表情になった。腹の底ではすでに追い返す言葉まで組み立てていたのに、口を開くより早く、崎原時男のほうが真っ青な顔で立ち去っていく。
胸の奥の酸っぱい裂け目がまた広がった。けれど、同時に――小林暁は確かに少しだけ、息がしやすくなった。
もう、愛情であの男を覆い隠すことなんてできない。心も体も擦り切れて、彼女は力なく背にもたれる。
額のこめかみを指先で押さえる。胸は鈍く痛むのに、涙は一滴も落ちてこない。半開きの瞳だけが、冷たく理性を保っていた。
それから二日間、崎原時男は小林暁の病室に姿を見せなかった。
代わりに、小林暁は高熱を何度もぶり返す。
意識を保つのが難しく、たまに聞こえるのは、処置に来た医師や看護師たちのひそひそ声だけだった。
「……崎原様、やり方がえぐいよね。奥さんあんな状態なのに、あっちの小林さんの病室に付きっきりって」
「しっ、そういう話やめなよ。クレーム入れられたら――」
言葉は途切れ途切れで、はっきりとは掴めない。けれど、苦しさだけは生々しいほど確かだった。
熱は下がらず、しまいには、このつらさが体から来るものなのか、それとも周囲の断片的な言葉から来るものなのか、もう判別がつかなくなる。
朦朧とする中で、ひやりとしたものが小林暁の額に触れた。
冷たくて、骨ばった感触。
誰かの手のひらだ。小林暁は必死に目を上げようとするが、まぶたは鉛のように重い。やっと隙間を開けても、見えたのは月牙のように白い影だけだった。
誰かが見舞いに来た。
反射的に崎原時男の顔が浮かぶ。けれど次の瞬間、心の底で自嘲が弾けた――ありえない。
このタイミングで来るとしたら、きっと幸村蓮二だけ。
「幸村蓮二……」
ひやりとした感触が、すっと離れた。
空気が、数度冷えた気がした。
小林暁は気づかないまま、かすれた声で続ける。甘えるみたいに、柔らかく。
「……ちょっと、つらい」
「小林暁」
病床の脇に立つ崎原時男は、腕をだらりと下ろしたまま、険しい顔をしていた。
たった二音節。短く、硬い。深い井戸に石を落としたみたいな響きに、小林暁の意識が一気に引き戻される。
彼女はなんとか上体を半分起こした。
「……あんたか。崎原時男」
崎原時男はわずかに眉を寄せ、次いで眉を上げる。声は氷の屑を含んだように冷たい。
「ゆきの回復は順調だ」
熱で頭がどろどろの小林暁には、その言葉の意図がまるで見えない。
眉をひそめ、頭の芯を刺す痛みに耐えながら彼を見る。――今しゃべる気力があるなら「私に関係ある?」と吐き捨てていたはずだ。
だが崎原時男は彼女の反応など待たず、踵を返して出ていった。
神経わからない。
小林暁は内心で毒づきながら、ゆっくりと横になる。
――と思った次の瞬間。
去ったはずの崎原時男が戻ってきて、枕元のシャンパンローズを乱暴に掴み、ゴミ箱へ放り込んだ。
「下品だ」
その小さな騒ぎは、すぐに小林暁の意識の霧に沈み、彼女はそれすら夢だったのかと疑うほどだった。
その日の少し遅い時間、幸村蓮二がまた見舞いに来た。
入ってすぐ、彼はゴミ箱に落ちた花びらに気づく。表情は崩さず、ただ笑って、新しく持ってきたひまわりを花瓶に挿した。
「ローズ、苦手?」
そう言いながら弁当箱を床頭台に置き、首をかしげて小林暁を見る。口調は冗談めいて軽い。
小林暁は薬を飲んだばかりで、さっきまでのしんどさが引いたところだった。急にそう聞かれて、反射的に首を振る。
「ううん、別に」
「ならよかった。嫌いなのかと思った」
幸村蓮二は笑みをさらに柔らげ、弁当箱を開ける。
「母さんのスープ、飲んで。食べられるうちに」
断れない勢いで、スプーンが口元まで運ばれる。
「……自分で――」
小林暁が遠慮すると、
「病人が無理すんな。俺がやる」
幸村蓮二は強引だった。
結局、小林暁は口を開く。視界の端に、ゴミ箱の残骸が映った。さっきの言葉の意味が腑に落ち、同時に、あの朦朧とした出来事が夢ではなかったと知る。
小林暁は唇を結び、気まずそうに言いかけた。
「花、あれは崎原時男が――」
幸村蓮二がにこやかに遮る。
「崎原様、忙しいみたいだし」
忙しくて付き添いはできないのに、花を投げ捨てる時間はある――そう言外に言われている気がして、小林暁は唇を噛む。
感傷に沈む暇もなく、鶏スープがまた口に入った。
幸村蓮二はそれ以上は言わず、ひたすら食べさせてくる。
この優しさは、崎原時男から一度ももらえなかったものだ。飲めば飲むほど胸がきゅっと締まり、ぽつりと口をついて出た。
「……もう、頑張りたくない」
幸村蓮二の目がぱっと明るくなる。何か言いかけた、そのとき――。
「お前ら、何をしている!」
怒鳴り声が病室を切り裂いた。
二人が同時に振り向くと、崎原時男が険しい顔で大股に入ってくるところだった。
勢いに押されるように、幸村蓮二はすぐ小林暁の前へ腕を出し、声を低くする。
「崎原様、何のつもりですか」
崎原時男は答えない。幸村蓮二の庇う腕、半分残った鶏スープへと視線を流し、最後に小林暁を見据えて目を細めた。
「小林暁。離婚協議書、まだサインしてないだろ」
警告が、露骨に滲む。
小林暁は聞こえないふりをして言った。
「退院したら、書く」
あまりにあっさりした返事が、逆に崎原時男の苛立ちを鈍らせたのか、彼は眉をひそめたまま黙る。代わりに幸村蓮二へ視線を向けた。
「坊や。ここはお前の居場所じゃない」
幸村蓮二が冷笑し、言い返そうとした瞬間、衣角が小さく引かれる。振り向くと、小林暁が無理に笑っていた。
「大丈夫。今日は……ありがとう」
それは簡単な追い返しで、同時に、彼を守る言葉だった。
崎原時男の力に、幸村蓮二は抗えない。下手に張り合えば巻き込むだけだ。
「俺は怖くないけど。ひとりで平気?」
幸村蓮二は身を寄せ、声を落とす。
小林暁の胸が少し揺れる。生意気なくらい真っ直ぐで、妙に可笑しい。彼女は小さく首を振った。
「平気。明後日には退院できるから」
幸村蓮二は少し黙り、うなずく。
「わかった。そのとき迎えに来る」
幸村蓮二を見送ってから、崎原時男がようやく小林暁に向き直った。口元に嘲りを浮かべて。
「次の寄りかかり先探し? ずいぶん早いな」
「あなたほどじゃない」
小林暁は淡々と返し、ただうんざりする。
「で、何しに来たの」
「邪魔だったか」
崎原時男は近づき、顎をつまんで持ち上げる。視線が彼女の口元に一点だけ焦点を結び、ふいに手を放した。
「脂ぎってる。気持ち悪い」
それだけ言って、彼は出ていった。まるで、それが目的だったかのように。
それから数日、崎原時男は二度と現れなかった。小林暁ももう慣れていて、退院の日は幸村蓮二に手伝われて手続きを済ませた。
出口へ向かう途中、背後から囁き声が飛んでくる。
「……あれ崎原様の奥さんじゃない? 夫婦でそれぞれ遊んでる感じ?」
小林暁は振り向いて、誰が言ったのか確かめようとした。だが前方は緩いスロープ。足がすべって、
「っ――!」
幸村蓮二がすぐ横にいて、素早く抱えるように支えた。
「大丈夫?」
緊張した目で上下を確かめる。
小林暁は手を振って、何か言いかけた。だが、その視線の先に崎原時男が遠くから歩いてくるのが見える。
顔色は悪く、足取りはせわしない。
目の前まで来ると、冷えた目で二人を見下ろした。
「小林暁。自分の立場、忘れるな」
小林暁は黙ったまま。
幸村蓮二が、からかうように淡々と言う。
「崎原様、今日はお時間あるんですね」
崎原時男は取り合わない。小林暁だけを見て言った。
「ゆきは体が弱い。準備しろ」
小林暁の表情がようやく動く。
「……何の準備?」
「輸血だ」
軽い一言だった。
けれど小林暁には、それが死刑宣告みたいに落ちてきた。
