第4章
小林暁は、全身の血がこの瞬間に凍りついた気がした。視線をそっと移し、崎原時男の顔にふわりと落とす。まるで――今まで一度もこの男を知らなかったみたいに、じっと、丁寧に。
崎原時男もまた彼女を見返していた。女の視線が熱を帯びて刺さる。わずかに間を置き、彼は目を逸らして、そばで待機していた護衛へ向き直る。
「奥様を中へ」
命令口調は淡々としていて、雑で、当然のように自然だった。
小林暁は俯く。胸の奥の酸っぱさが込み上げ、鼻の奥までつんと痛む。ゆっくり息を吸い込んだのに、むしろ苦しさだけが増した。
その反応は、崎原時男には見慣れたものだった。黙って従う。都合のいい、望みどおりの奥様。
「安心しろ……」
崎原時男が手を上げる。声が、珍しく少しだけ柔らかい。
ぱんっ!
指先が小林暁に触れるより早く、誰かがその手を叩き落とした。
「消えろ!」
怒りをそのまま叩きつけたような怒鳴り声が、廊下に響く。
誰もが想定していなかった横槍。そこでようやく崎原時男の目が、幸村蓮二へ移った。
取るに足らないはずの男が、目を吊り上げている。すでに小林暁の前に立ち、まるで自分たちこそが世界で一番近しい関係だと言わんばかりに。
崎原時男は眉をひそめた。胸の奥に、むっとした不快が湧く。だが――なぜ不快なのかが、はっきりしない。
「崎原時男、お前は畜生だ!」
幸村蓮二は自分を感情の波に飲まれない男だと思ってきた。けれど今は、平静なんて保てない。
今にも飛びかかりそうな勢いに、小林暁は慌てて彼の腕を掴む。衝動を押さえ込むように、無理やり胸に抱きとめた。
「蓮二!」
その動きが、あまりにも親密で。
崎原時男は目を細め、不満は一段、苛立ちへと変わった。
「引きはがせ」
スーツ姿の大柄な男が、わずかに顎を上げる。声は冷静で、胸の苛立ちに取り引きなどしない。
護衛たちは黙って頷き、ずらりと前へ出た。
幸村蓮二は小林暁をかばって後退する。だが体格が良くても、同じくらいの男が三、四人相手では無理だった。まして、動きが明らかに慣れている。
一瞬の暗い力が入り――幸村蓮二が悲鳴を上げる。
「蓮二!」
小林暁は顔色を失い、反射的に崎原時男を見る。彼は両手をポケットに突っ込み、冷えた目で眺めているだけだった。
長年の付き合いで、小林暁は崎原時男の表情の意味を嫌というほど知っている。
「崎原時男! 彼に手を出さないで! 私が献血する!」
涙はすでに頬をぐしゃぐしゃに濡らし、歩みもふらつく。小林暁は、自分の体がまた微熱を帯び始めたのを感じていた。
唇を噛み、昔の癖のように俯いて、従順に崎原時男の前へ立つ。
崎原時男は指先で彼女の顎を持ち上げる。涙を見ても、痛みを想う気配はない。ただ、うっすらと苛つきが透けていた。
「そこまで心配か。あいつのことを」
小林暁は顔を背けたかった。けれど指が万力みたいに食い込み、痛みでさらに泣きたくなる。それでも堪え、男の指を自分の手で掴んだ。ほんの少しでも、息ができるように。
「……彼とは関係ない」
やけに落ち着きすぎた声は、崎原時男の機嫌を取らなかった。
崎原時男は鼻で笑う。視線が、彼女の細い指に落ち、目が翳る。手を放し、いかにも大目に見てやるという調子で言った。
「それでいい」
小林暁は何も言わない。余計な視線だけが、護衛に連れ去られていく幸村蓮二へ向かう。
崎原時男はいつの間にか横へ回り込み、その視線を遮った。手のひらが小林暁の手の甲に重なる。半ば押し、半ば守るようにして、彼女を病院の奥へ導く。
頭上から落ちてくる声は、甘い毒みたいに柔らかく、笑みすら混じっていた。
「言うことを聞くなら、何でも叶えてやる」
小林暁は相変わらず黙っていて、聞こえていないようだった。
採血室の前まで来ると、中から若い医師の声がした。
「崎原様、やっとお越しですか。小林さんの容体が危険で、すぐ輸血が必要なんです!」
小林暁が目を上げる。若い医師だ。
背中を乱暴に押され、よろけながら数歩――椅子の前で、かろうじて止まった。
「早くしろ」
背後から崎原時男が促す。
目の前の医師は、狐みたいな笑みを浮かべ、慣れた手つきで小林暁の腕を引き寄せ、駆血帯を巻いた。
「大丈夫ですよ。すぐ終わりますから」
小林暁は黙って座る。従順――けれど、静かすぎる従順。生気のない従順。
崎原時男は少し離れたドア口に立ち、まるで人形のような小林暁を見ていた。押し込めたはずの苛立ちが、また胸の底で渦を巻く。
――奥様が、変わった。
その時、幸村蓮二を追い払っていた護衛が戻ってくる。
崎原時男は目を動かし、廊下へ出た。
「調べました。あの男は奥様の大学の同級生で、幸村蓮二……」護衛は声を落とし、採血室へ視線を滑らせながら、言いにくそうに続ける。「大学時代、奥様に交際を迫っていたそうです」
崎原時男はすぐ護衛を見た。護衛は慌てて付け足す。
「ですが奥様は、一切応じていません」
「知ってる」
崎原時男は視線を戻し、痩せた背中を見つめたまま、表情を緩める。
「彼女が愛してるのは俺だけだ」
護衛は何も言わない。間を置いて下がろうとしたところで呼び止められた。
「そいつを監視しろ。二度と小林暁に近づけるな」
あのシャンパンローズは、あの男が贈ったものだ。
幸村蓮二が小林暁に余計な考えでも吹き込んだのだろう。だが問題ない。崎原時男は小林暁を知り尽くしている。取るに足らない男が、二人の関係を揺らすはずがない。
崎原時男は平然と、採血室へ戻った。
すでに採血は終わっていた。
小林暁は脱脂綿を押さえたまま、ぼんやり座っている。頭はさっきよりもぐらぐらして、胃までぎゅっと縮むように痛んだ。
身体がつらい。けれど、それ以上に胸が冷えていく。
今日退院したばかり。昨日だって微熱があった。それでも、五年寄り添った男は小林ゆきのことしか見ていない。彼女の体調なんて、欠片も気にしない。
小林暁は長く息を吐き、投げやりに脱脂綿を放る。針跡がまだじわりと血を滲ませているのに、構わず袖を下ろした。
「終わったか」
崎原時男の声。
「はい。奥様と小林さん、血液型が同じで助かりました。でなければ手間でしたよね」
医師は軽い口調で血液バッグを看護師に渡し、そのまま小林ゆきの病状の話を続けた。
小林暁は聞く気がない。むしろ吐き気がする。
立ち上がりはきっぱりしていた。けれどそれが眩暈を加速させ、足が揺らぎ――前へ、真っ直ぐ倒れ込む。
「小林暁!」
崎原時男が素早く腕を伸ばし、身体を支えた。
珍しい緊張が男の腕に走る。その感触に小林暁の心が揺れ、思わず彼の腕を掴む。
――私を、心配した?
「どういうことだ」
崎原時男は医師へ冷たい目を向け、問い詰める声に氷が混じった。
医師は最初こそ動揺したが、その視線を受けてもすぐ落ち着く。むしろ妙な顔で、疑うように崎原時男の腕の中の小林暁を見る。
「本来なら、奥様のほうが小林さんより体力があって、回復も早いはずなんですが……」
その言い方で、崎原時男の視線が小林暁へ落ちる。声が冷える。
「もうその手まで使うようになったか」
意味はわかった。小林暁は歯を食いしばり、ふらつく体を無理やり起こす。
「……今日、退院したの」
言葉は途切れ途切れ。崎原時男が問い返そうとした時、彼女が続けた。
「離婚の書類にサインさせるんでしょ。書類は?」
あまりの性急さに、崎原時男は目を細める。手が伸び、小林暁の顎を掴み上げた。冷えた嘲りが滲む。
「どうした。俺を捨てて、あの幸村蓮二のところへ行くつもりか?」
