第5章
男の言い分は唐突で、わけがわからない。小林暁は顔を背けた。
「関係ないでしょ。これは……最初から私たちで決めてたこと!」
崎原時男の拘束を振りほどくと、暁は一歩引き、冷えた目で彼を見た。そこには、断ち切るような覚悟が滲んでいる。
「自分の立場くらい、わかってる。……本物が戻ってきたなら、私は席を譲るべきでしょ?」
逃げたい気持ちは、隠しようもない。
けれど崎原時男は笑った。まるで、彼女の方が子どもだと言わんばかりに。
「席を譲る?」
彼は女の手首を乱暴に掴んだ。関節が外れそうなほどの力。
「今、ゆきにはお前が必要なんだ。出て行く? 小林暁。お前はあいつの姉だろ」
暁ははっと目を上げる。胸の奥の裂け目がじわりと酸っぱく痛み、声が震えた。
「……あなた……」
わからないはずがない。つまり――小林ゆきのための、血袋として飼い続けるつもりなのだ。
運命の悪戯みたいな理不尽に頭が熱くなる。暁はもがき、時男から離れようとした。
「嫌! 崎原時男! そんな……!」
身体はまだ弱い。少し抵抗しただけで汗が滲み、頬が赤く染まっていく。
双子でも、暁の眉目はより繊細だった。数年の「奥様」暮らしが肌艶まで整え、入院中の血の気のない顔とは別人みたいに見える。
そして今の、熱を帯びた赤みは――妙に色っぽい。
時男の喉が鳴る。彼は暁の腰を押さえて抱き寄せ、吸い寄せられるように唇を重ねた。熱く柔らかな肌は、温い玉のようで。
「いい加減にしろ。帰るぞ」
暁は手を上げ、彼の顔を叩くように押しのけた。歯を食いしばる。
「誰が、あなたと帰るのよ! 触らないで! どいて!」
しばらく歩いたところで、時男の堪忍袋が切れた。声がすっと冷える。
「小林暁」
悪魔の囁き。たったそれだけで、暁の背にぶわりと鳥肌が立った。
五年間支配され続けた恐怖が、一瞬で心を占領し、彼女はぴたりと黙る。
同時に、苦い絶望も込み上げてくる。
女の従順さは、男を機嫌よくさせる――それだけ。
崎原家に戻ると、暁は玄関先で変化に気づいた。
外の小さな庭。自分が植え、手をかけて育てた紫陽花が、綺麗に咲くはずだった場所が――空っぽだ。
考える間もなく、前方から弾むような声が飛んできた。
「時男! おかえり!」
何年ぶりでも、聞き間違えるはずがない。
小林暁はゆっくり顔を上げ、笑顔で出迎えに出てきた小林ゆきと視線がぶつかった。
ゆきの頬は血色よく艶やかで、どこが病人なのかと思う。
対して暁は、唇が白く、顔色も冴えない。
並べてしまえば――さっきの献血が、滑稽な茶番にすら見えた。
ゆきは一瞬だけ笑みを引きつらせ、すぐに軽い調子で言い直す。
「小林暁も帰ってきたの? もっと嫌がって帰らないかと思ってた」
そう笑いながら、ゆきは時男へ寄り、甘えるように腕に絡みついた。
ちょうど靴を履き替えた時男は、玄関を降りてくるゆきを支えるように手を添える。
「外は風が強い」
その優しさが、暁の頭を鈍く殴った。
ここは屋内の内玄関だ。風が強いも何もない。
一方の暁は外玄関に立ち、足元は庭の石畳。北風が髪先をさらっていく。
ゆきは時男の庇護を当然のように受け取り、誰にも見られない角度で暁へ勝ち誇った目を向けた。けれど声は、可愛らしく柔らかい。
「早く入って、小林暁」
二人は家の中で寄り添い、親密に振る舞う。なにより、ゆきの堂々とした立ち居振る舞いが――この家の女主人は自分だと言わんばかりだった。
暁は視線を落として中へ入る。靴を脱ぐとき、体側の指がきゅっと曲がった。自分を落ち着かせるための、ほんの小さな仕草。
ゆきへの冷たい態度は隠していない。それでも、空気の読めない人間は寄ってくる。
「小林暁、今回は本当にありがとう」
ゆきは暁の手を握り、子どもみたいにぶんぶん振った。
「あなたがいてくれなかったら、私――きっと、もう……」
「やめて。白々しい」
暁はとうにゆきにうんざりしている。同じ血が流れていようと関係ない。
彼女はゆきの手を振り払い、淡々と言い捨てた。嫌悪というより、見知らぬ人の馴れ馴れしさを拒む声。
「小林暁!」
その動きに、時男がすぐさま低い声で釘を刺す。
ゆきはそのまま時男の胸へ凭れ、喉を詰まらせるように言った。
「いいの、時男。わかってる。小林暁は……私のこと、恨んでるんだよね。私が病気になったせいで、あの子まで……」
時男はゆきを守るように腕を回す。
「小林暁。ゆきに謝れ」
予想していたはずなのに、胸がぎゅっと掴まれたみたいに痛む。暁は瞬きをして、目の奥の酸っぱさを押し殺した。
「……どうして私が謝るの?」
時男が何か言う前に、暁が先に言葉を叩きつける。
「腎臓を一つ渡して、それでも謝れって?」
言い終えると、二人の反応など見ず、暁はまっすぐ階段へ向かった。
部屋で落ち着こうとしたのに、寝室には家政婦がいた。抱えているのは暁の衣類。彼女は暁を見るなり、はっとして「奥様」と呼ぶ。
暁は腕の中の荷物、そして背後に積まれた段ボールを見て眉をひそめた。
「……何を片づけてるの? 季節の替わりでもないのに」
家政婦は困ったように目を泳がせる。
「若様が……このお部屋を小林さんにお使いいただくようにと……」
「……は?」
暁の息が止まる。
「ここ、主寝室よ」
「若様のご指示でございます」
短い沈黙のあと、暁はゆっくり息を吐いた。
「私の荷物は客室へ。……運んで」
客室は三階の隅だった。
横になったばかりなのに、すぐにノックの音がした。戻ってきた家政婦だろうと思い、体を起こしかけた、その瞬間――扉が開く。
「小林暁」
入ってきたのは小林ゆきだった。
あの甘ったるい笑顔は消え、顔いっぱいに誇示と優越が浮かんでいる。
暁は冷えた目で迎え撃つ。
「何の用?」
「用がなくちゃ、愛しいお姉ちゃんに会いに来ちゃダメ?」
ゆきは笑い、寝椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「小林暁って、思った通り。ほんっと、何の取り柄もない」
暁は答えない。
「五年」ゆきは指を広げ、わざとらしく見せつけた。「五年も譲ってあげたのに。結果は? 私が指を一本動かしただけで、彼はすぐ戻ってくる」
その自慢が、暁の神経を逆撫でする。拳を握りしめ、真っ直ぐに見返した。
「欲しいなら勝手に持っていけばいい。私はいらない」
ゆきは鼻で笑い、自分のネイルを眺める。暁の言葉を本気だとは欠片も思っていない顔。
「……祖父は……」
暁の脳裏に、引きずられていく直前に見た身内の姿が刺さる。
「黙れ!」
ゆきの作り物の余裕が一瞬で崩れ、怨毒が表情を染めた。
「その死にぞこないのジジイの話、二度とするな!」
「……おじいちゃんよ!」
ゆきはふんと鼻を鳴らす。
「小林暁。あのジジイの目に映ってたのは、あんた一人だけ。私なんか、最初から眼中にないじゃない」
暁は言葉を失った。
確かに祖父は暁を可愛がった。けれど、ゆきへの愛情だってあったはずだ。だからこそ、あんな我儘に育ったのに――。
「おじいちゃんは……」
誤解だと気づき、説明しようとした瞬間。
ゆきは聞く気もなく立ち上がり、手を振り抜いた。
ぱぁん、と乾いた音。
「得してるくせに、いい子ぶるな」
暁の頭が横に弾かれる。ただでさえ重い頭が、じんじんと痺れて、耳の奥がわんわん鳴った。
そのとき――半開きの扉の外から、崎原時男の声が落ちてくる。
「小林暁……」
