第7章
手の中にあるのは、小林ゆきの水のようにしなやかな腰。耳朶にかかる吐息には、ほのかな香りが混じっていた。
崎原時男は、この場面を何度となく夢想してきたはずだった。なのに今、その淡い香りに眉が寄る。商業的に作られた匂いは、どうしても不自然で、どこかくどい甘さが鼻につく。
時男は伏し目になり、無意識にその甘ったるい香水の気配を拒んだ。代わりに、脳裏に勝手に浮かぶのは小林暁の、薄い梔子の香り。
知らないはずの胸のざわめきが、彼を苛立たせる。唇をきつく結び、それをただ香水への反発だと片づけた。
「時男……」
男が微動だにしないことが、ゆきの胸の不安をさらに煽った。設定も何もかなぐり捨て、彼女は腕を伸ばして男の首に絡める。唇は喉仏に触れそうなほど近い。
潤んだ瞳。かすかに震える声。あまりにも哀れを誘う仕草。
「先生が言ってたの。病状、また悪くなってるって……もう二度とあなたに会えないんじゃないかって、怖くて……」
女の縋りは、たいてい男にとって麻薬だ。
だが今の崎原時男は、妙に冷めていた。背を軽く撫でてやりはする。声も穏やかだ。けれど、部屋の奥へは一歩も踏み込まない。
「大丈夫だ。何かあれば医者はすぐ来られる」
その言葉に、ゆきは口元を吊り上げ、瞳の奥に得意げな色を滲ませた。だが喜びが膨らむ前に、彼の声が重ねて落ちる。
「今夜は付き添いをここに入れろ」
ゆきが目を瞬かせる。「でも、私……あなたに——」
「俺は医療のことは分からない。お前の状態は特殊だ。プロに見てもらうのが一番だ」
淡々とした口調。取り合う余地はない。
急ぎすぎれば逆効果だと悟り、ゆきは引きつった笑みで頷くしかなかった。
主寝室を出ると、崎原時男は廊下の角で専属の医師と鉢合わせた。
「崎原さん」
「どうだ」
問いながら、視線が廊下の突き当たりの部屋へ一瞬だけ滑る。
「奥様は微熱が出ております。おそらく、それが原因かと」
医師は言葉を選んだ。小林暁の体調不良は明らかだが、手元に機器がない。できるのは簡単な診立てまで。
崎原時男は頷く。「薬を出してくれ」
医師も頷き、去り際に付け加えた。
「原因をはっきりさせるには、病院で検査を受けていただく必要があります」
その言葉に、時男は答えない。ただその場に立ち尽くし、客室の方を重く見つめていた。
医師は短く頭を下げ、音もなく去っていく。
小林暁のもとへ水と薬を運んできた家政婦の手元で、ちょうど電話が鳴った。
「奥様、お薬を」
受話口の向こうで、その一言がかすかに聞こえたのだろう。幸村蓮二の軽い調子が、途端に消える。
「また薬? どうしてだ」
その焦りを聞きながら、暁はすぐに返事をしなかった。最後の錠剤を飲み込み、ようやく低く言う。
「大丈夫。ちょっと熱があるだけ」
採血を二日続けてされたことは、口にしない。
家政婦が器を下げて出ていく。
「まだ熱? 崎原時男は、そんなふうにしかお前を看られないのか」
苛立ち混じりの声。
暁は一瞬だけ黙り、呼び出された医師の顔を思い出して、庇うように言った。
「さっき、専属の先生を呼んで診てもらった」
「それ、当たり前だろ」
幸村蓮二は取り合わない。少し間が空き、それから本題を突く。
「暁。離婚届——サインしたのか」
「まだ」
暁は背中を預け、柔らかな寝具に沈んだ。声に倦んだ色が混じる。
「でも離婚なんて時間の問題よ。もう、あの人とこれ以上、何も関わりたくない」
迷いのない、きっぱりした言い方だった。
それを聞いた幸村蓮二の胸に、ようやく石が落ちる。
空になった器を抱えて廊下へ出た家政婦は、階段口で崎原時男に遭遇した。深い灰色のガウン姿。いったん寝て、起き上がってきたのが見て取れる。
こんな時間に会うとは思わず、家政婦は目を見開く。
「旦那様、まだお休みにならないんですか」
時男の視線が、彼女の手にある空の器を掠める。答えず、軽く頷いただけで、廊下の奥——客室へ歩き出した。
家政婦はその背を見送り、眉をひそめる。奥様の様子を見に行くつもりなのか。
廊下を渡り、一歩ずつ客室へ近づくにつれ、崎原時男の胸は静まらなかった。気が散り、視線が落ち着かない。
扉の前に立ったとき、男の眉間は深く刻まれていた。ドアノブを見つめる目に、言葉にできない感情が絡みつく。
彼は今、別の部屋で寝ている。長く使われていない寝室は匂いが薄く、淡いお香が残るだけ。
目を閉じても、小林暁の梔子の香りが蘇る。まるで媚薬でも混じっているみたいに、抗いがたい。
何度寝返りを打ったか分からない。結局、崎原時男は負けて、ここへ来た。
……妙だ。俺は、そんなに久しぶりだったか?
病院で見た、汗に濡れた暁の肌。白い皮膚の下に滲む、淡い桃色。思い出すほどに、胸のざわめきが落ち着いていく。
時男は眉を上げ、ノブを押し下げた。
「……もう、あの人とこれ以上、何も関わりたくない」
扉がほんの少し開いた瞬間、女の声が漏れ出た。
崎原時男の動きが止まる。顔が一気に陰る。目を細め、次の瞬間、乱暴に扉を押し開けた。
「じゃあ、そういうことなら——」
幸村蓮二の言葉が出かかったところで、受話口の向こうから「バン!」と鈍い音。続けて、暁の悲鳴が響く。
「どうした?! 小林暁!」
一瞬の静寂。持ち替えるようなごつごつした音。そのあとに落ちてきたのは、男の低い、脅しの声だった。
「幸村蓮二……死にたいのか」
それだけ言って、通話は切れた。
幸村蓮二はスマホを握りしめたまま、胸の中がぐちゃぐちゃに乱れる。視線がギプスの巻かれた左脚を掠め、吐き捨てるように罵った。
崎原家の客室。
崎原時男はスマホを乱暴に放り、片手で押さえつけた女を見下ろした。
暁の両手は頭の上へ持ち上げられ、手首が交差したまま、男の掌の下で封じられている。抵抗は、いまや白々しいほど弱い。
微熱のせいで頬がうっすら赤い。けれど肌は相変わらず白く、淡い色の寝間着が肌と溶け合って、目に毒なほど無防備だった。
「何するのよ!」暁は暴れきれず、吐き捨てる。
「お前を抱く」
崎原時男は短く言い切った。片手でも造作ない。
暁の顔がかっと熱くなる。脚を上げて蹴ろうとする。
「頭おかしいんじゃない!」
時男はそれを顔で受けた。火が少しだけ鎮まりはしたが、手は止めない。声は水みたいに平坦だ。
「どうした。もう次の男が欲しいのか? 俺じゃ足りないって?」
乱暴で、紳士とは程遠い。
暁は痛みに一瞬、顔色を失う。熱のせいで眩暈が強まり、肩が震えた。外れそうな痛みを堪えながら手を抜き、男の胸を押し返す。
「……出てって」
時男がちらりと見る。さっきの赤みは引いた。左頬に残る赤の奥が、よく見れば青く滲んでいる。
それでも次の動きは、不意に柔らかくなった。暁に息を継がせるように、ほんの少しだけ間を与える。
長い夜だった。暁は何度も意識が遠のきかける。
「出ていくことは考えるな。言っただろ、ゆきにはまだお前が必要だ」
崎原時男はベッドの縁に腰を下ろし、ティッシュを数枚引き抜く。
暁は疲れきった目を、開いては閉じる。糸みたいな声。
「……離婚届、忘れないで」
時男の手が止まった。
唇の端から、冷たい笑いが漏れる。ふ、と。
