第8章
「小林暁、捨てる気か?」
くしゃりと丸めた紙屑が、狙いすましたみたいにゴミ箱へ吸い込まれる。男の低い笑いには、嘲りが混じっていた。
小林暁は答えない。枕へ、もっと深く顔を埋めるだけ。
限界だった。身体も、神経も、疲労が骨まで染みていて、崎原時男の皮肉は北風の氷片みたいに、細かく胸の奥を刺す。
捨てる気か。
暁はぼんやりとした頭で考える。
……たぶん、捨てられる。
そう思った次の瞬間には、もうどうでもよくなっていた。ただ、眠い。
返事がないのに気づいた崎原時男が、後ろへ視線を投げる。
暁は顔のほとんどを枕に押しつけていた。こめかみの髪が汗で頬に張りつき、頬は不自然なほど赤い。呼吸まで、少し荒い。
「話しかけてるんだが」
崎原時男が身を寄せ、顎をつまんで強引にこちらへ向けさせた。
暁は眉を寄せ、気だるく呟く。
「……疲れた」
目も開けない。指先の下の肌はじんわり熱く、しっとりした感触が、崎原時男の手を離れがたくする。
しばらく撫で回してから手を放し、気まぐれに掛け布団をめくる。そこに残った粘ついた痕を見て、鼻で笑った。
「洗わねえのか?」
暁は眠気に負けて、かすかに「ん」と返事をしたまま、また落ちる。
長い生活は、嫌でも妙な阿吽を作る。
崎原時男が暁を抱えたまま浴槽の縁に腰を下ろすと、腕の中の女は心地よさそうに、くぐもった声でふにゃりと笑うみたいに喉を鳴らした。
暁は腕を浴槽の縁にだらりと預け、首を反らしてしばらく湯に浸かる。男はそれを眺めてから、ようやくゆっくり手を伸ばして、後始末のために洗い始めた。
少し腫れている。暁が腰をよじって避ける。
だが崎原時男は、その程度の抵抗など気にしない。適当に宥めるように触れ、視線は前方の、つるりとしたうなじへ落ちる。
彼は小林暁の身体に、印を残したことがない。
けれど今は――何かが足りない気がした。
崎原時男は暁の顎を支え、首筋へ顔を寄せる。
一分ほどして、彼は顔を上げる。舌で唇をなぞり、できたばかりの赤い痕を眺めた。
指の腹でそっと擦り、片眉を上げる。
……悪くない。
洗い終えた身体は軽くて、暁は久しぶりに深く眠れた。
朝、目が覚めた瞬間に、身体のさっぱりした感覚がわかる。
考えるまでもない。誰の「世話」か。
崎原時男は、彼女が従順な顔をするのが好きだ。特に、終わったあとの。
彼にとって事後の洗浄は、特別なご褒美なのだろう。……いったい誰に対する、ご褒美なのかはわからない。
成田七海から、いくつかの依頼が届いていた。単価は悪くない。
暁は歯を磨きながら返信する。
【あとで向かう】
そのうち一件は、クライアントが対面での打ち合わせを希望していた。無茶な要求ではないが、こういうのは大抵、面倒な相手だ。
うがいのために顎を上げながら、頭の中ではもう、どうやって交渉の主導権を握るかを組み立てていた。
客室に備え付けの櫛は、簡素なクッションブラシだった。
暁は鎖骨までの短めの髪を保っている。この手のブラシがちょうどいい。
鏡の中の自分を、首を傾けながら確認する。少しでも完璧に近づけたくて。
左頬の青痣はまだ目立つ。けれどクッションファンデのカバー力が十分で、ほとんど見えなくなった。
ダイニングを通りかかったところで、家政婦に呼び止められた。
「奥様、朝食はいかがなさいますか」
丁寧すぎる言葉遣いに、暁は一瞬だけ足を止める。視線を向けた先で、食卓の上座に崎原時男が座っているのが見えた。そしてその下座には、小林ゆき。
「いらない」
二人と同じ空間にいたくなくて、首を振り、そのまま行こうとする。
「またどこへ行く」
崎原時男の声は穏やかなのに、立ち姿には見下ろす気配が滲む。
暁は眉をひそめた。
「用事」
コーヒーカップの底が、かちりとソーサーに触れる音。崎原時男が目を上げる。
「お前は本当に忙しいな」
暁は黙ったまま、足をゆっくり動かす。
家政婦が朝食を運んできて、気を利かせたようにテーブルの端へ置いた。
「奥様、少し召し上がってください。あとでお薬もございますし」
距離が少しあるなら、嫌悪感も薄れる。暁は渋々、席についた。
小林ゆきは今朝は妙に静かで、暁が座ったときに「お姉ちゃん」と呼んだだけだった。
朝食が終わりかけた頃、上座の崎原時男が口を開く。
「ゆきの状態が不安定だ。用もないのに外をうろつくな」
暁は薬を飲んでいた。言葉に反射でゆきを見やると、ゆきは笑いながら崎原時男にもたれかかる。いったん落ち着いていた心が、またざわりと乱れた。
「昨日、あなたはもういいって言った」
淡々と告げ、視線を逸らす。
「それに、もう離婚するんでしょ」
――放っておいて。そういう意味だ。
崎原時男が奥歯を擦る。視線は、髪に隠れた暁のうなじへ落ち、暗く沈んだ。
「離婚協議書には、まだサインしてない」
「じゃあ早く渡して」
暁は待ってましたとばかりに言い、含みのある声を落とす。
「私、席に居座るつもりないから」
小林ゆきが二人を見比べた。暁の言葉に、ゆきはすぐ口元を押さえて嗚咽する。
「それ、どういう意味……? まさか私が、時男との関係を壊すって言いたいの?」
「そういう意味じゃない」
崎原時男がゆきの肩を軽く叩き、暁を見た。
「ゆきに謝れ」
暁は冷たく顔を背け、聞こえないふりをする。
空になった薬椀を端へ押しやり、立ち上がった。
「待て」
崎原時男の声が一段上がり、露骨な怒気が乗る。
小林ゆきはなおも続ける。
「いいの、時男。お姉ちゃんは、昔から私のこと歓迎してくれなくて……」
けれど崎原時男は、ゆきの言葉など拾いもしない。目は暁に釘付けだった。
「止めろ」
命令の一声で、玄関ホール付近に控えていたボディガードが動く。暁の逃げ道を、完全に塞いだ。
「崎原時男……私を監禁する気?」
暁が息をのむ。
次の言葉を吐く前に、ボディガードが暁の手首を背中へ捻り上げ、そのまま乱暴に押さえつけて階上へ連れていった。
崎原時男は、ボディガードの手元に一瞬だけ目を落とした。だが何も言わず、黙ってコーヒーを飲む。
苦味が口いっぱいに広がり、頭を冴えさせるには十分だった。
小林ゆきは口元を押さえたまま固まっていた。弱々しい仮面はもう張りついていない。胸の内の動揺と焦りが、瞳から溢れそうだ。
暁の声がエレベーターの向こうに消えて、ようやく手を下ろす。
おかしい。これは、おかしい。
心の奥が警鐘を鳴らし続ける。
ゆきの身体が小刻みに震え、呼吸も浅くなる。崎原時男は――小林暁に、何か、今までと違うものを向け始めている。
「時男……」
納得できない笑みを貼りつけて、ゆきは崎原時男を見る。
崎原時男は相変わらず、彼女にだけは優しい。
「どうした」
その唯一の甘い声に、ゆきは少しだけ落ち着く。けれど不安は消えない。
「小林暁、用事があるのかもしれないよ」
崎原時男が小さく嗤う。
「アイツに何の用がある」
ゆきは答えない。胸の底では、小林暁を完全に追い出す算段が、静かに形になり始めていた。
その頃の小林暁は、何も知らない。
彼女は客室に閉じ込められた。ドアの外にはボディガードが二人。窓の外は広い庭園で、逃げ道はほとんど断たれている。
暁はベッドの端に座り、スマホの画面が何度も点滅するのを見つめた。成田七海からの催促だ。
その案件の相手は、国際市場とも組んでいる大企業。
復帰したばかりの小林暁にとって、それは間違いなく――巨大な足がかりだった。
