第9章

スマホの着信音が鳴って、ようやく小林暁は虚ろな呆然から引き戻された。

手に取ると、腕がじんと重く、こわばっている。画面に表示された「七海」の文字を見た瞬間、眉間がぴくりと震えた。

「七海……」

掠れた声が漏れ、小林暁は目を閉じる。

成田七海は本来、急かすつもりだった。だが溜息みたいな呼びかけを聞いた途端、胸がきゅっと締まる。

「何かあった? 崎原時男? それとも小林ゆき?」

小林暁は立ち上がり、ベランダへ向かった。声は次第に平静を取り戻していく。

「……あいつが発狂して、外に出す気ない」

「は? 何それ」成田七海が思わず声を張る。周囲の視線を感じたのか、すぐに声を落とした。「……ねえ、間に合う? もうすぐクライアント来るんだけど」

小林暁は下の庭園へ視線を巡らせる。右、左。集中しすぎて、友人の問いにすぐ返せなかった。

「暁?」

身を乗り出していた上半身を引っ込める。小林暁の瞳には、すでに幾分かの落ち着きが戻っていた。

「三十分後に着く。車、手配して」

崎原家からスタジオまでは車で二十分。三十分あれば、十分――のはずだ。

庭園には巡回の気配がない。庭師が入るのは火曜・木曜・土曜だけ。

今日は金曜。

小林暁は部屋に戻り、ぐるりと見回して、狙いをベッドのシーツと掛け布団カバーに定めた。

金はある家だ。客室だというのにベッドは大きい。

手早く裂かずに束ね、簡単に結んでいく。片端をベッドの足元の木柱に掛け、全身の力でぐいっと後ろへ引く。何度も、何度も。息が上がって、はぁはぁと肩で呼吸しながら結び目を確かめた。

結び目自体は緩んでいない。だが、余らせていたはずの端が、目に見えて短くなっている。

この結び方だけじゃ、一階の庭へ降りるには持たない。

小林暁は眉を寄せたが、諦めて座り込む気はなかった。

客室にあるものは少ない。所詮、客室。必要最低限の日用品くらいだ。

――けれど、窓には束ねるためのストラップが付いていた。丈夫そうなナイロン素材。

何度か試して確かめてから、小林暁はその派手な色のナイロン紐をベランダの石柱に巻きつけた。万が一に備え、さらに余らせた分で二重に固定する。

こんな脱出劇、テレビでは何度も見た。だが自分の手でやるのは初めてだ。

長い紐をベランダの外へ放り投げる。垂れ下がっていくのを見ながら、小林暁の喉が小さく鳴った。

手が震える。少し力を込めただけで、腕の中がぱんぱんに張って痛い。

でも――引いた弓に戻る矢はない。小林暁には退路がなかった。

半分ほど降りたところで、後悔が押し寄せる。

手のひらに布を当てるのを忘れた。摩擦で掌がひりひりと焼けるように痛む。

ようやく一階の高さまで来たのに、今度は紐が足りない。末端を掴んでも、つま先が地面に届かなかった。

ここまでで、髪の先は汗で湿りきっている。

見上げても、結び目の位置はもうよく見えない。

逃げ道はない。

小林暁は腹を括り、手を放して下へ飛んだ。

建物沿いには、きれいに刈り込まれた低木がぐるりと植えられている。クッションにはなる――はずだった。だが刈りたての枝先は、刃みたいに鋭い。

「っ……あ!」

小林暁は悲鳴を漏らし、足を引きずりながら壁際に手をついた。そこでようやく傷を確かめる。右のふくらはぎのあたり、布が突き破られている。中は見えないが、皮膚は切れているだろう。

骨は――大丈夫。

小林暁は大きく息を吐き、周囲に人がいないのを確認すると、庭の裏門からするりと抜け出した。

成田七海が呼んでくれた車は、崎原家の裏門付近に停まっていた。

運転手は待たされたらしく、彼女が乗り込むのを見るなりほっとした顔をする。

「お客さん、ようやく来ましたね。もう十分待ってましたよ」

「ごめんなさい。本当に急いで。上乗せするから」

「いくらで?」

「5000!」

十二分後、車はデザインスタジオのビルの前で停車した。

小林暁はドアを開けて降りる。込み上げていた吐き気を、しばらくかけてようやく押し込めた。

――三階、廊下の突き当たりにある客室の前。二人のボディガードが、視線ひとつ動かさず立っている。

いつの間にか小林ゆきが近づいてきた。声は低く、やわらかい。

「お二人とも。少しだけ……姉と話をさせてください」

ボディガードが彼女を見る。二人は崎原時男の側に長く仕え、立ち上げの修羅場も共にくぐってきた。言ってしまえば腹心だ。

小林ゆきが崎原時男にとって何か――それくらい、彼らも嫌というほど理解している。

ほんの一瞬の迷いのあと、扉が開けられた。

だが、誰も想像していなかった。

客室の中に、小林暁はいない。

あるのは散らかった室内と、ベランダの外へ垂れたシーツの結び目だけ。

「小林暁!」

小林ゆきがベランダへ駆け寄り、悲鳴みたいな声を上げる。

ボディガードの胸がどくんと跳ねる。慌てて中へ入り、目にした光景に背筋が冷えた。

一人が小林ゆきを庇うように支え、もう一人が崎原時男を呼びに走る。

崎原時男は書斎で会議中だった。

慌ただしく入ってきたボディガードに、彼は露骨に眉を吊り上げる。

「奥様が逃げました」

崎原時男がすっと目を上げる。指の関節がきしむほど握り、呼吸が一拍だけ遅れた。

「探せ」

声はまだ平坦で、さほど意に介していないようにも聞こえる。

ボディガードは驚かない。頷いて退出しかけた――そのとき、視界の端で崎原時男の指が滑り、会議システムを迷いなく退出するのが見えた。

年に一度の株主会議だ。

ボディガードが一瞬だけ目を見張る。

タブレットを伏せ、崎原時男が低く言い放つ。

「何を突っ立ってる。俺に探させたいのか」

ボディガードは首を振り、すぐに下がった。

小林暁の行き先は調べやすい。崎原家に足りないものなどない――監視カメラも例外じゃない。配車アプリの車両情報も、一分もしないうちに崎原時男の前へ揃った。

マイバッハは速い。十六分後、車はそのスタジオの前に静かに停まった。

道路沿いの、二階建ての建物。内装は整っていて、簡素ながらも品がある。

崎原時男が人を連れて入ると、すぐにアシスタントが駆け寄ってきた。

「ご予約は、どちらのデザイナーでしょうか」

にこやかな笑み。装いを見て、大口客だと判断したのだろう。

崎原時男は淡く一瞥しただけで、口を開かない。

後ろに控えていた秘書が代わりに言った。

「小林暁はおりますか」

アシスタントが一瞬きょとんとする。その名は馴染みが薄いが、知らないわけでもない。合点がいったように笑った。

「エリスのご予約でしょうか。いまお客様の対応中でして。よろしければ、休憩室で少々お待ちいただけますか?」

崎原時男は頷かない。ただ眉を寄せる。

それでも秘書は察し、作り笑いでアシスタントに促した。

「ご案内をお願いします」

休憩室へ向かうには、打ち合わせ室の前を通る。

打ち合わせ室の扉は半開きで、小林暁が中で横向きに立っていた。笑みを含んだ声が漏れてくる。

「古崎様、またまた。デザインの原点って『願いをかたちにする』ことですから。お気に召していただけるものに仕上げられるなら、こちらこそ光栄です」

崎原時男が足を止める。視線が、その横顔に吸い寄せられた。

見慣れたはずの顔なのに――今は、どこか知らない誰かみたいに見える。

案内していたアシスタントが不思議そうに声をかける。

「若様……?」

秘書が手で制した。

「大丈夫です。あなたはお仕事に戻って」

すぐそばの声が、なぜか遠い。

崎原時男の耳に残っているのは、小林暁の、淀みなく弾む笑い声だけだった。

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