1、
白川蘭視点
キャンプ場の外から鳴り響く重低音が、キャンピングカーの車内をぶるぶる震わせる。鼓膜の奥まで突き上げるようで、頭の中もどくん、どくんと脈打った。
私は炭筆を握りしめ、スケッチブックの上で彫刻の影を乱暴に塗り潰す。
――ひどい下絵。
線は荒れて、構造は傾き、いつもの私の水準とは比べものにならない。
深く息を吸う。胸の奥からせり上がる吐き気を、どうにか押さえ込もうとした。
そもそも、雪山なんて来るべきじゃなかった。
スタジオはこの半月で、大型インスタレーションの特急案件を三件も抱えた。チーフスカルプターの私は、ほとんど毎日、明け方の二時三時に寝て、朝は六時七時に起きる。
親友の高坂綾乃は、山みたいに積まれた廃棄石膏モデルの間に立ち、私の青黒い目の下を指さして怒鳴った。命削ってる、と。あんたは仕事中毒だ、と。
それでも、後藤快斗からの一本の電話で、全部がひっくり返った。
やけに元気な声でまとわりついてくる。
「雪山のキャンプ場、星空がすげえ綺麗らしいんだ」
「全然会えてない。会いたい」
「蘭が来ないなら、この旅行、意味ないだろ?」
後藤快斗は、私の扱い方を知り尽くしている。
子どもの頃から、あの少し拗ねた目をされるだけで。あるいは、甘えた声で名前を呼ばれるだけで。私はいつも折れてしまう。
生まれつき身体が弱い。冷たい風を浴びれば半月は咳が止まらない。忙しくて足が地に着かないほどでも、彼に「無理」と言い切るだけの心は、どうしても持てなかった。
炭筆を置き、重たい頭を手で揉む。ふわふわして、足元が遠い。
快斗を呼ばなきゃ。本当に……具合が悪い。
テーブルの縁に手をついて、どうにか立ち上がる。
窓ガラスには分厚い白い霜が張りついていた。手の甲で曇りをこすって小さく覗くと、刺すような雪明かりが一気に目に飛び込んでくる。
外は遊園地みたいに騒がしい。色とりどりのスキーウェアが、雪に覆われたキャンプ場を行き交っていた。背の高い松には暖色のキャンプライトが連なり、少し先には大きな焚き火。
一瞬で見つけた。後藤快斗。
やたら目立つ鮮やかな赤のシェルを着て、ゴーグルも付けず、改造オフロード車のボンネット脇で笑い転げている。手に握った雪を、誰かの襟元に押し込もうとしていた。
追い回されているのは小林優里。大学の同級生だ。
白のショートダウンにスキニーデニム。弾むような体のラインがくっきり出ていて、いかにもスポーツ系の女の子。
彼女は逃げない。逆に雪をひと掴みして、遠慮なく快斗の顔にべしゃっと塗りつけた。
「うわっ、冷てえ!」
快斗が大げさに叫び、雪を放り投げて顔をぬぐう。その隙に小林優里が彼の背中へ飛びつき、けらけら笑った。
快斗は振り返って彼女を見上げる。怒りなんて欠片もない。あるのは、全面的な甘やかしと楽しさだけ。
――眩しくて、目に痛いほどの親密さ。
小林優里は典型的なアクティブ女子だ。レースもスポーツも大好きで、快斗の耳をつんざくヘヴィメタルの中でも平気で一緒に狂える。危険なバックカントリーにも付き合えるし、サーキットではコ・ドライバーだって務まる。
それに比べて私は。
粉塵に敏感で、ガソリンの匂いで吐き気がして、少し歩いただけで息が切れる――病弱の代表みたいな人間。
冷や汗が背中を伝い、肌に張りつくカシミヤのニットがじっとり濡れた。ドアの隙間から冷気が入り込み、ぶるっと震える。
本当はドアを開けて、「快斗、つらい」と叫びたかった。
でも、窓の向こうで太陽みたいに笑う彼を見た瞬間、喉が凍りついたみたいに声が出ない。
今ここで出ていったら、この「彼らの」盛り上がりは一瞬で止まる。
快斗は笑顔をしまい、心配そうで――それから、ほんの少しだけ面倒くさそうな顔になる。友達を置いて、私のところへ走ってくる。
そしてみんなが知るのだ。後藤快斗のノリを悪くする彼女が、また体調を崩したって。
そんな場面は、私たちが育ってきた年月の中で、何度も繰り返された。
私は、足手まといになりたくない。小さい頃からずっと。
ゆっくりとドアノブから手を離す。
……いい。少し我慢すれば。彼が遊び終わって戻ってきたら、その時に言えばいい。
力の抜けた脚を引きずり、狭い椅子に戻って座る。膝を抱えて身体を丸め、残った体温を逃がさないようにした。
窓の白い曇りがまたじわじわ広がり、外の景色にぼんやりしたフィルターがかかっていく。
焚き火の方から、突然どっと大きなどよめきが上がった。
同じくスキーウェアの若者たちが、山みたいに雪球を抱えて、わっと快斗の方へ走っていく。
「快斗! 雪合戦やるぞ! 負けたら夜は罰ゲームで酒だ!」
喉を張り上げる声が飛ぶ。
快斗は、いかにも生意気な挑発のジェスチャーを返した。腰をかがめて雪球を作り始める。背後のキャンピングカーの中で、私が霜のガラス越しに息も絶え絶え見ていることには、まるで気づかない。
小林優里が彼の背中から降り、そのまま手を伸ばして、快斗の手をがしっと掴んだ。引っぱって人の輪へ連れていく。
快斗はその手を振りほどかない。むしろ彼女の肩を軽く抱いて、雪で滑らないよう支えた。
その瞬間、頭痛が一気に強くなった。
二人がどんな関係なのかなんて、考えない。
大人の恋は、境界線がいったん曖昧になったら、自分を騙し続ける方が滑稽だ。
私と快斗の間には、もうとっくにひびが入っている。ただ、どちらもそれを突き破る勇気がないだけ。
小林優里に引かれて二歩三歩歩いた快斗が、ふと何か思い出したように立ち止まった。
振り返り、焚き火と人波の向こう――このキャンピングカーへ視線を向ける。
心臓が、一拍抜けた。
霜のガラス越しで、彼には私が見えるはずもないのに。私は息を殺してしまう。
来てくれる? 私の異変に気づく?
快斗は手を上げ、こちらへ二度ほど振って、声を張り上げた。
「蘭! 車でいい子に待ってろ! すぐ戻るから!」
その声は車内まで貫通してきた。軽くて、明るくて――まるで、荷台に残したペットをあやすみたいに。
言い終えると彼は一切の未練もなく向き直り、小林優里に引かれて二人並んで走り去っていった。
車内が、完全に静まる。聞こえるのは、自分の荒い呼吸だけ。
「すぐ戻る……」
その言葉を、苦笑いで噛みしめる。
彼の「ちょっと待って」は、決して「ちょっと」じゃない。数時間かもしれないし、深夜まで。冷気と、他人の香水をまとって戻ってくるまで。
冷や汗で服はぐっしょり濡れ、肌に冷たく張りつく。眩暈が雪崩みたいに押し寄せた。
手足の熱はもうとっくに消えて、指一本動かすのもつらい。
明るかった世界が、歪んで、褪せていく。
身体の力が抜け、私はそのまま深い闇へ落ちた。
