2、
どれほど時間が経ったのかも分からない。骨まで刺すような寒さに叩き起こされて、私は昏睡の底から浮かび上がった。
どうにか瞼をこじ開ける。車内の暖房はとっくに止まっていて、まるで氷室だ。吐く息が白く曇る。
顔を横へ向け、運転席の上にあるデジタル時計を見る。午前3時15分。
後藤快斗は、まだ戻っていない。
「すぐ戻る」
あのひと言は、結局、数時間にわたる完全な放置を意味していただけだった。
喉がからからに乾いて痛い。息を吸うたび、砕けたガラスを飲み込まされるみたいだった。
水が欲しい。飲まなきゃ、このままこの椅子の上で焼き切れてしまう気がする。
下唇を噛み、両手でテーブルの縁を支えながら立ち上がる。少しずつ、少しずつ身体を流し台まで運んだ。
蛇口をひねる。氷みたいに冷たい水がコップへ落ちていく。
待ちきれず、私は身をかがめて一気に喉へ流し込んだ。
壁に手をつきながら向きを変え、ベッド下の収納までにじり寄る。厚手の毛布を引っ張り出し、隙間なく身体に巻きつけた。
毛布には、淡いシダーウッドの香りが残っていた。後藤快斗の匂い。
前はあんなに好きだったはずなのに、今は嗅いだだけで胃の奥がむかつく。
熱はどんどん上がっていく。額は焼けるみたいに熱いのに、手足は凍ったように感覚が鈍い。視界までぼやけ始めていた。
脳裏に焼きついて離れないのは、赤いシェルジャケットを着た後藤快斗が、小林優里と雪の上で追いかけっこしていた光景。
後藤快斗は、昔からずっと人の輪の真ん中にいた。
レースをして、ギターを弾いて、身体の中に尽きない火でも宿っているみたいに生きている。
それに引き換え私は、隅で立ち尽くし、たまに彼が振り返ってくれるのを待っているだけの人間だった。
こんなに長く一緒にいて、もう分かっていたはずなのに。
彼にとって私は、丁寧に扱わなければいけない存在。
でも、彼が本当に求めているのは、隣で一緒に馬鹿みたいに騒げる相手だ。
小林優里みたいに、元気で、明るくて、痛みや不調で足を引っぱったりしない女の子。
毛布の中へ身体を縮め、目を閉じる。熱を持った涙が頬を伝い、羊毛をじわりと濡らした。
白川蘭。何をしてるの。
ここまで自分を壊してまで、まだ彼の心に自分がいるのか確かめたいの?
馬鹿みたい。
時間だけが、のろのろと過ぎていく。意識は沈みかけては浮かび、浮かんではまた引きずり込まれる。
ようやく眠りに落ちそうになるたび、骨の隙間から滲み出すみたいな鈍い痛みが、私を無理やり現実へ引き戻した。
どれくらい経った頃だったか、キャンピングカーのドアが外から開けられ、冷気がどっと流れ込んでくる。
「っはあ、寒っ……死ぬかと思った!」
入口から後藤快斗の声。全身に濃い酒の匂いをまとっている。
近づくにつれ、その酒気に甘ったるい香水の香りが混じって鼻を刺した。
ローズマリー。小林優里がいつもつけている香り。
胃の中身がひっくり返りそうになって、私は唇をきつく噛みしめる。吐き気を、どうにか押しとどめた。
車内の灯りが点く。眩しい白さに、反射的に目を閉じた。
「蘭? 寝てたのか?」
後藤快斗はそう言いながらこちらへ歩いてくる。声はやけに弾んでいた。
「さっきの、マジでめちゃくちゃ面白くてさ。あいつら勝負に負けて、雪ん中でケツ丸出しで走らされて――優里なんか笑いすぎて腹痛いってさ」
楽しげに外の出来事を話し続ける。私の異変には、最後まで気づかない。
テーブルのそばまで来て、ようやく足を止めた。隅で震えている私を見つけたからだ。
「おい、なんでこんなとこで寝てんだよ。風邪ひくだろ」
少し責めるような口調で、私の毛布に手をかける。
ずれた毛布の隙間から、熱で真っ赤になった顔が覗いた。
後藤快斗の動きがぴたりと止まり、目が見開かれる。
「蘭……?」
次の瞬間には腰をかがめ、冷たい手のひらを私の額へ当てていた。
けれど、ほんの一瞬でその手は弾かれたみたいに離れる。
「っ、なんだよこれ、熱すぎんだろ!」
低く悪態をつき、それから声を荒げた。
「また具合悪くなってんじゃねえか! なんで呼ばないんだよ!」
また、だって。
そう。私は彼にとって、厄介ごとの種でしかない。
どうにか瞼を持ち上げ、笑おうとして口元を動かす。けれど喉から漏れたのは、掠れた息だけだった。
半死半生の私を見て、後藤快斗は慌てて毛布を巻き直す。
「大丈夫、今すぐ山下りる! 病院行くぞ!」
叫ぶように言い残し、運転席へ飛び込む。キーをひねる。
スターターが鈍く唸ったあと、沈黙。
後藤快斗は固まったまま、信じられないという顔でもう一度キーを回した。
――反応なし。
気温が低すぎたのだ。このディーゼルのキャンピングカーは、一晩のうちにすっかり冷え切っていた。燃料系統は凍り、バッテリーも上がっている。かかるはずがない。
「動けよ! くそ、動けって言ってんだろ!」
後藤快斗が怒鳴り、拳を何度もハンドルに叩きつける。
私たちは、雪山に閉じ込められた。
後藤快斗はすぐにスマホを掴み、小林優里やほかの友人たちへ次々電話をかけた。けれど相手は泥酔しているか、あるいは向こうの車も同じように動かないか。
私は椅子に身を預けたまま、呼吸がどんどん浅くなっていくのを感じていた。視界の輪郭もばらけていく。
「車……そうだ、配車……」
後藤快斗は独り言のように呟き、配車アプリを開いて市街地の病院を目的地に入力する。
けれど。
無機質な通知音のあと、画面が冷たく告げた。
『申し訳ありません。付近に利用可能な車両がありません。しばらくしてから再度お試しください』
後藤快斗は画面を睨みつけ、みるみるうちに目を赤くした。
「車が……ない……どうすんだよ……」
午前3時半。標高の高い山奥。こんな時間に迎車が来るはずもない。
もう一度呼ぶ。結果は同じだった。
後藤快斗はスマホをメーターへ叩きつけ、両手で頭を抱え込み、髪をぐしゃぐしゃとかきむしる。
私はぼんやりした意識のまま、そんな彼を見つめていた。
――これが、後藤快斗。
物事がうまく回っている時には、眩しいほどのロマンをくれる。星を見せてくれる。コンサートに連れていってくれる。花火の下で、甘いラブソングを弾いてくれる。
でも、いざ何かが起きれば、たちまち手も足も出なくなる。
両親と、兄の後藤正樹に甘やかされて育った。難題をさばく力なんて、最初から持っていない。
瞼がまた重く落ちてくる。もう一度意識が闇へ沈みかけた、その時だった。
後藤快斗がはっとしたように顔を上げ、小さく呟く。
「そうだ……兄さん。兄さん、軍の休暇で帰ってきてる。兄さんなら、絶対なんとかできる……!」
深夜だというのに、電話はすぐにつながった。
耳に届いたのは、聞き慣れた低く落ち着いた声。
「快斗。どうした」
たったひと言。それだけで、骨の芯に刻み込まれたような沈着さが、後藤快斗の狼狽を一瞬で押さえつけた。
後藤正樹。
名門後藤家の長男であり、後継者。後藤快斗の兄。そして現役の特殊部隊少佐。
なぜ名家の跡取りが、自ら最も危険な部隊へ身を投じたのか、誰も知らない。
両親は強く反対した。それでも彼は意に介さず、数年で次々と戦功を重ね、30歳を迎える前に最年少クラスの少佐となった。
グループの実務は彼が雇ったプロたちが回していて、本人が戻るのは休暇の時か、よほどの緊急時だけ。
いつだって冷静で、冷酷なくらいに。
――そうか。また、彼が休暇で帰ってくる時期だったんだ。
その声を聞いた途端、後藤快斗は縋るように叫んだ。
「兄さん! 助けてくれ! 蘭を、蘭を助けて!」
電話の向こうが一秒だけ沈黙し、声の温度がすっと下がる。
「何があった。今どこにいる」
「北峰のキャンプ場! 蘭がすげえ熱出してて……! キャンピングカーが凍ってエンジンかかんねえし、配車も呼べない!」
短い沈黙。
スマホ越しなのに、向こうから冷気が這い出してくるような気がした。
「お前――彼女を一人で車に残して、自分は遊んでいたのか」
後藤快斗の身体がびくりと強張る。
「ち、違……俺、俺は……蘭が車ん中でデザイン描くって……」
「黙れ」
後藤正樹は容赦なく遮った。
「頸動脈に触れろ。脈が速いか報告しろ。額の熱を見ろ。体温計がなければ手首の内側で判断しろ」
指示は明確で、寸分の無駄もなかった。その命令に従うことで、ようやく後藤快斗の混乱にも筋道が生まれる。
彼は転がるように私のもとへ戻り、指先を首筋へ当てた。
「脈、速い! 熱もやばいくらい高い!」
「車内にある防寒できる物を全部使え。濡らしたタオルを額に当てて、物理的に熱を下げろ」
落ち着いた声と同時に、電話の向こうでは足音が響き、ドアの開閉音がして、衣擦れの気配が続いた。
きっとコートを羽織りながら、もう外へ出ている。
「今から向かう。ヘリは航路申請に時間がかかる。車で峠を上がる。最短で40分だ」
そこで一拍。
そして後藤正樹は、低く言い放った。
「快斗。よく聞け。その40分、どんな手を使ってでも彼女を守れ。蘭に何かあったら――お前は二度と後藤家に戻らなくていい」
通話はそこで切れた。
後藤快斗は顔面蒼白になり、狂ったように毛布やタオルを探し始める。
私は椅子の背にもたれ、ゆっくりと目を閉じた。
闇がまた押し寄せてくる。
脳裏に浮かぶのは、後藤正樹の深く静かな眼差し。
不思議と、さっきより怖くなかった。
彼が40分と言ったのなら、40分。
私は、彼を待つ。
