5、
白川蘭視点
車内には革の匂いと、ひやりとした淡い香りが漂っていた。
ぼんやりと目を開ける。喉が乾ききって、痛いほどだ。
焦点がゆっくり合っていく。頭上にあるのは、オフロード車の天井。
身体の下の本革シートは柔らかく、暖房はしっかり利いている。熱い風が、火照って軋む私の身体を包み込んでいた。
背中に回された腕が、そっと肩を抱き寄せる。もう片方の手が、腰までずり落ちたカシミヤのブランケットを丁寧に掛け直してくれた。
「蘭?」
耳元で、掠れた艶のある声。
必死に首を回すと、後藤快斗の充血した目とぶつかった。
いつもなら、パーマの癖をいかした髪をやたら大事にしているくせに。今は草の束みたいに乱れている。汗に貼りついた前髪が額に落ち、全体的にみっともないほど必死だ。
「やっと起きたな」
ほっと息を吐き、彼の手が私の額に伸びてくる。
反射的に、顔を背けた。
宙で止まった指が小さく曲がり、行き場を失ったまま、ゆっくり引っ込められる。
昔の私なら――こんなふうに焦る彼を見ただけで、胸の奥が甘く疼いたはずだ。あの目の焦りを「私のことを大事に思ってる証拠」だと、都合よく受け取って。
たとえば彼が「北峰の初雪、すげえ綺麗らしい」と一言言えば、私は病弱な身体を引きずってでも、氷点下の山で凍えた。震えながら、これでいいんだと笑って。
でも今は、指一本動かす力すら残っていない。
骨の隙間まで、疲れが染みている。
彼の刺激だらけの世界で、私はいつも空気を冷やす足手まとい。常に世話が必要な、病弱の象徴みたいな存在。
――同じ道を歩けるはずがない。
必死に合わせ続ける生活が、もう限界だった。
「……水」
唇だけを動かす。ひび割れた口元が引っ張られて、鋭く痛んだ。
「わかった! わかった!」
快斗が慌てて身体をひねり、収納を探り始める。
「保温ボトルは助手席のグローブボックスの下だ」
前から、低く冷えた男の声が落ちてきた。その一言で、快斗の慌ただしさが嘘みたいに鎮まる。
快斗の肩越しに運転席を見る。
背筋の通った男。黒いカシミヤのコートが、広い肩にきっちりと乗り、無駄のない線を描いていた。街灯の光が流れ、冷たく整った横顔を際立たせる。
――正樹兄さん。
だから、この車の匂いが妙に馴染んだのだ。
「兄さん……」
掠れた声で呼ぶと、
後藤正樹は振り返らないまま、ハンドルを握り、吹雪く前方だけを見ていた。
「起きたなら目を閉じて休め。喋るな」
淡々とした口調。いつもの、近寄りがたい気品と冷たさが滲む。
子どもの頃からそうだ。温めようとしても温まらない鉄みたいな人。
後藤家で、快斗が騒ぎを起こすやんちゃ坊主なら、正樹兄さんはいつだって後ろから来て、黙って片づける大黒柱だった。
厳格で、抑制的で、情け容赦がない。
けれど軍人らしく、約束したことは必ず果たす。家族が泥だらけで立ち尽くす時、彼は淡々と、最悪の状況を「処理」してしまう。
そういう外は冷たくて中が熱い人だと、私はもう知っている。
大雪で山が塞がる真夜中に、迎えに来てくれた。それだけで借りは大きい。
「……ありがとうございます、兄さん」
無理に声を絞り出す。
正樹兄さんの握る手が一瞬止まり、次の瞬間、冷たい声が飛んだ。
「快斗。水」
快斗は慌てて保温ボトルの蓋を開け、私の唇へそっと寄せる。
ぬるい白湯が喉を滑り落ち、燃えるような痛みがようやく少しだけ引いた。
数口飲んだところで、スマホの震える音。
快斗が取り出して画面を見るなり、顔色がさっと抜けた。
「……母さんだ」
唾を飲み込み、震える指で通話を取る。
車内は静かだった。スピーカーにしていなくても、受話口の向こうの花梨おばさんの甲高い怒鳴り声が漏れ出す。
「快斗! あんた、頭に何詰まってんの!? 蘭の身体で、真夜中に山頂キャンプなんて連れてく気!?」
花梨おばさんは昔から短気で、怒れば容赦がない。
「母さん、俺――」
「黙りなさい!」
花梨おばさんが叩き切る。
「あんたの兄さんから聞かなきゃ、こんな大事になってるなんて知らなかった! 蘭に何かあったら、白川家にどう顔向けするの!?」
快斗は叱られる小学生みたいに肩をすくめ、何も言えなくなる。
こういうところだ。普段は偉そうなくせに、いざ責任を問われると途端に萎む。
「今すぐ下山して、蘭を白川家に送りなさい。私から白川家に謝っておく。覚悟しときな。帰ってきたら叩き直すから!」
通話が切れる。
快斗はスマホを握ったまま俯いた。魂を抜かれた抜け殻みたいに。
潤んだ目で私を見て、唇を震わせる。
「ごめん、蘭……俺のせいだ。ちゃんと見てられなかった」
椅子にもたれて、私は彼を見つめる。言葉が出ない。
昔なら、花梨おばさんが私のことで彼を叱れば、私が悪いと胸を痛めたはずだ。迷惑をかけたのは私だと。
でも今は、文句を言う気力すらない。
「……っ、げほっ」
喉を整え、少しだけ身体を起こして受話口へ言った。
「おばさん、快斗を責めないでください。雪、見たかったのは私なんです」
言い切った瞬間、車の空気が凍りついたみたいに固まった。
快斗が顔を上げ、信じられないものを見る目で私を見た。
この状況でも、私が彼を庇うなんて思っていなかったのだろう。
仕方ない。私はそういう馬鹿だ。彼を好きすぎて、とっくに自分を失ってる。
この間だって――サーキットでは小林優里を優先して私を置き去りにして、集まりでは私のことを「面倒くさい」と笑った。
失望は積もりに積もって、私の気力を削り取っているのに。
それでも、手放せない。
花梨おばさんはそれ以上責められず、快斗に「ちゃんと看なさいよ」とだけ言って電話を切ったらしい。
「蘭……」
快斗が感激したように手を伸ばし、私の手を握ろうとする。
その瞬間。
ギャッ――
雪道でタイヤが空転し、車体が大きく揺れた。
快斗の手が空を掴む。
前を見る。
正樹兄さんの骨張った手がハンドルを強く押さえ、声は氷みたいに冷たい。
「雪道だ。しっかり掴まれ」
アクセルが踏み込まれ、オフロード車は姿勢を立て直し、吹雪を切り裂いて市街地へ向かった。
三十分後。
車は白川家の別荘の門前に、静かに停まった。
ヘッドライトに照らされた雪が白く浮き、大門はすでに開いている。
ダウンを羽織った父と母が、風雪を受けながら待っていた。傍らには医療鞄を提げた木下医師。
正樹兄さんは抜かりがない。医師まで先に手配している。
ドアが開くと、雪混じりの冷気が一気に吹き込んだ。
快斗がシートベルトを外し、屈んで私を抱き上げる。
「蘭!」
母が赤い目で駆け寄り、私の額に手を当てた。
「どうしてこんなに熱いの……!」
父は顔を真っ黒にして快斗を睨みつける。怒りを噛み殺しているのが分かる。後藤家と正樹兄さんへの遠慮がなければ、今すぐ怒鳴っていただろう。
反対側でドアが閉まり、正樹兄さんが車の前を回って来た。
さっき私に掛けられていた毛布を手にしている。近づくと一歩だけ踏み込み、その毛布を私の肩へ掛け直した。
冷たく澄んだ松の香り。刺す夜風を遮るように、私を包み込む。
「正樹、今夜は……本当に手間をかけたな」
父は正樹兄さんに対してだけ、怒りを引っ込め、丁寧な口調になる。
後藤正樹は年下というだけの存在ではない。軍人である以前に、後藤グループの当主でもあるのだから。
「伯父さん、気にしないでください」
正樹兄さんは淡く頷き、私の顔を一瞬だけ見て、すぐ視線を外した。
「外は冷えます。先に医師を中へ。蘭を診てもらいましょう」
私は快斗に抱えられたまま家へ入り、そのまま二階の寝室へ運ばれる。
慣れたベッドに横たわった瞬間、張りつめていた神経がほどけた。骨の隙間から、だるさが湧き上がる。
木下医師は手際よく体温を測り、点滴の準備に入った。
冷たい針が手の甲に刺さり、薬液がチューブを伝って一滴ずつ落ちていく。
快斗は椅子を引きずってベッド脇にぴたりと座り、点滴していない方の手を両手で包んだ。自分の頬に押し当てて、離さない。
「蘭、俺、帰らない」
固い目で私を見る。
「今夜はここにいる。熱が下がるまで、ずっと」
私はしょぼしょぼする目で、彼の頭頂のつむじを見つめる。喋る力もない。
そのとき、廊下でごく軽い足音がした。
顔を向けると、正樹兄さんが寝室の、少しだけ開いた扉の外に立っている。
薄暗い廊下の灯りが背中から差し、彼の顔の大半は影に沈んでいた。
ただ静かに立ち、扉の隙間越しに視線だけを差し込ませている。
――快斗が、私の手を握りしめているところへ。
表情は読めない。それでも、その視線が深いことだけは分かった。氷が張った淵みたいに底が見えず、何かを押し殺している。私の胸の奥が、理由もなくざわつく。
数秒の沈黙のあと、正樹兄さんは視線を引き、踵を返した。
背筋の通った影が、廊下の奥へ消える。
ほどなくして、階下から車のエンジン音が響いた。
遠ざかっていき、やがて風雪に溶けるように消えていった。
