8、
白川蘭視点
けれど後藤正樹は、結局なにもしなかった。
ただ、私の顔から視線を外し、溶けはじめたアイスクリームのカップを見下ろしただけ。
「好きにしろ」後藤正樹の声が、底冷えするほど冷たくなる。「さっさと治す気がないなら、それでいい」
そう言い捨てると、彼は踵を返して扉へ向かった。
すっと伸びた背中が、近寄るなと告げているみたいに硬い。
バタン、と容赦なくドアが閉まる。
その鈍い音に合わせて、張りつめていた息がようやくほどけた。
「兄さん、今日なんか変な薬でも飲んだ?」後藤快斗が大きく息を吐く。「あの圧、マジで人殺せるって」
私はベッドの背にもたれたまま、後藤正樹が出ていく直前に向けた視線の感触を、頭の中で何度も反芻していた。
失望。怒り。――それとも、別のなにか。
その「別のなにか」が、胸の奥をざわつかせる。
「快斗」眉を寄せ、声を落とす。「兄さん、今日はおかしい気がする」
普段だって厳しい人だ。でも私にだけは、どこか柔らかいところがあった。
あんなふうに棘を隠そうともしない言い方は、初めてだった。
後藤快斗は唇を尖らせ、ベッドの端に座り直すと私の手を取った。
「兄さんは元からああいうクール系だろ。軍に入ってから、ますます怖くなったし」
指先をきゅっとつままれ、彼は媚びるみたいに笑う。
「気にすんなって。蘭が俺の味方してくれりゃ、兄さんだって俺に手出しできねーし」
私は、その能天気な顔を見つめて口を開きかけ――結局、何も言えなかった。
たぶん、私が考えすぎなんだ。
後藤正樹が、アイスひとつであそこまで怒るはずがない。
それなのに、彼が無造作にテーブルへ置いていった栄養ドリンクの束が目に入るたび、胸のざわめきはどうしても沈まなかった。
……
半乾きの粘土の胚に刻刀を当てると、しゃり、と乾いた擦過音が立ち、細い泥の巻きが長く跳ねた。
手首を宙に浮かせ、彫刻の主線――その一筋のカーブだけを、慎重に整えていく。
作品名は「纏」。
骨ばった二つの手が、絡みつくように固く固く組み合わさっている。
助け起こそうとしているのか。引きずり落とそうとしているのか。――判別できない形。
スタジオは静かで、空調の送風口が、ううん……と微かに唸るだけだった。
私は凝り固まった首筋を揉み、喉の奥に急に痒みが込み上げて、顔を背けて手で口元を覆い、こほ、こほ、と小さく咳をする。
湯気の立つレモン湯が、一つの手に差し出された。
桐谷雪菜が丸椅子を引き寄せて隣に座り、眉間にしわを寄せる。
「蘭さん、さすがにやりすぎですよ?」彼女は私の手から刻刀を取り上げようとする。「高熱が下がってまだ何日です? 医者、安静って言いましたよね」
私は濡れタオルで指先の泥を拭い、レモン湯を受け取った。
「今、手が乗ってるの。止めたら流れが切れる」一口飲むと、温かさが食道を滑って、喉の乾きがすっと和らいだ。「それに最近、大きい案件が続いてる。月末までに納品しないと。私が頑張らないと、来月どうやって雪菜の給料出すの?」
桐谷雪菜は唇を尖らせ、納得しない顔のまま。
「うちのスタジオ、もう評判いいし、仕事なんて捌ききれないくらい来てるじゃないですか」棚に並ぶ半端な作品群を指さす。「蘭さん、ほんと仕事人間」
私は棚の作品たちに目をやって、ふっと笑う。
「私、土が好きなの」
人よりずっと単純だ。どれだけ心を注いだかが、そのまま形になる。
嘘をつかないし、裏切らない。
そう言っている最中、脇に置いたスマホがぶるる、と震えた。画面に表示されたのは「後藤快斗」。
通話ボタンを押す。向こうの背景は騒がしく、ベースのチェック音がごうん、と低く唸っているのが聞こえた。
「蘭! 今スタジオ?」
「うん」
「明後日、南城でクソでかい野外フェスあるんだよ! 翔太たちも全員行く!」快斗の声は興奮で弾んでいる。「蘭、来てくれ! 俺の背中押してくれよ! うちのバンド、初めてトリなんだ!」
刻刀を握った手が、ふっと止まる。
南城はJ市から千キロ以上。往復してライブを見れば、最低でも三日は飛ぶ。
「今は動けない」視線を落とし、粘土の表面に残る微かな凹凸を見つめる。「納期が詰まってるの」
「納期とかどうでもいい! 違約金なら俺が倍で払う!」彼は食い気味に遮った。「蘭、来いよ。飛行機もホテルも全部俺が手配する。何もしなくていい。人だけ連れて来ればいい」
スマホを握る指に、力が入る。まだ迷っていた。
でも快斗は、迷いの余白をくれない。
「決まり! 明後日、午後3時の便な! 空港に迎え行く!」
私が口を開く前に、通話はぶつりと切れた。
受話口に、ツー、ツー、と乾いた忙音だけが残る。
暗くなった画面を見つめ、しばらく動けなかった。
あの人はいつもそうだ。思いついたら一直線で、感情の速度で生きている。
けれど――「初めてトリ」という言葉だけは、さすがに重い。
快斗がどれだけバンドを大事にしているか。
あのステージに立つことが、彼にとってどれほどの意味を持つか。私は知っている。
三日分の空きを作るため、私は次の48時間を丸ごとスタジオに投げ込んだ。
濃いコーヒーを何杯も流し込み、二晩続けて徹夜し、搭乗の3時間前――ようやく最後の特急品に釉薬をかけ終えた。
午後5時。便は定刻どおり、南城国際空港に降りた。
南城はさっきまで豪雨だったらしく、J市よりもずっと冷える。風に撫でられるだけで、寒さが骨の隙間へ潜り込んできた。
私は20インチの銀色のスーツケースを押し、人波で沸く到着ロビーの出口に立つ。
スマホを取り出し、後藤快斗にかける。機械的な呼び出し音が1分続き、自動で切れた。
もう一度。
「ただいまおかけになった電話は、お出になりません……」
LINEを開く。10分前に送った「着いた。どこ?」が、会話欄にぽつんと浮いたまま、返事はない。
吹き抜けの風が抜けて、思わず肩が震えた。
私は風を避けるように柱の陰へ移動し、宿泊予約アプリを開く。
フェス会場近辺を入力――読み込みが終わった画面は、無情なグレーの「満室」だらけ。
諦めきれず範囲を広げる。10キロ、15キロ、20キロ。
星付きホテルも、ビジネスチェーンも、そこそこ清潔な民泊ですら、残りはゼロ。
フェスは観光シーズンと重なっていた。街そのものが、全国から流れ込んだ若者で飽和している。
スーツケースのハンドルが、刺すように冷たい。
冷えが掌から心臓へと走り、じくり、と痛んだ。
周囲には、友達同士で来たらしいファンが群れていて、笑いながら私の横をすり抜けていく。
私はもう一度、快斗へ電話をかけた。
今度は、電源が落ちたと告げるアナウンス。
――これが、あの人の「全部手配した」だ。
本当は慣れている。小さい頃から、快斗が私と交わした約束は、十のうち八つ、突発的な何かでなかったことになる。
私は重い足を引きずり、果てが見えないタクシー待ちの列へ向かおうとした。
その瞬間。
背後から大きな影が覆いかぶさり、体温の残る黒いロングコートが、ふわりと頭から肩まで包み込んだ。
布地は驚くほど暖かく、淡い煙草の匂いがする。
全身が、ぴたりと固まる。
振り向いた先にいたのは――
後藤正樹。
深いグレーのスーツに、張りのある白いシャツ。
普段は一番上までボタンを留める、融通のきかないほど端正な男だ。
今も長旅の気配はあるのに、それでも隠しきれない。骨の奥から滲むような育ちの良さと、圧。
どうして、ここに――?
