第2章
江里花視点
ぼんやりとした頭のまま帰宅すると、リビングでは文広が手当たり次第に引き出しを引っ掻き回していた。
「スマホはどうした! 二十回も電話したんだぞ!」
彼は顔を上げることもなく怒鳴りつけた。
私は疲労困憊でドア枠に寄りかかった。
「病院で倒れちゃって……気づかなかったみたい……」
「倒れた?」
文広は勢いよく振り返り、鼻で笑った。
「またその手か? 俺がお前を病院に置き去りにしたから、わざと電話に出なかったんだろ。違うか?」
「好きに思えばいいわ」
彼の顔色がさらに険しくなる。
「藤川の契約書はどこだ? クライアントが今夜必要だって言ってるんだ! まさか忘れたとは言わせないぞ。三百万の案件なんだからな!」
文広の仕事の書類は、ここ数年ずっと私が管理してきた。会社設立の初日から、すべての契約書、顧客データ、プロジェクトの企画書に至るまで、私が整理してファイリングしてきたのだ。彼は最後にサインをするだけでよかった。
私はそっと目を閉じた。
「私のバッグの中よ。昨日、すでにまとめておいたから」
文広は一瞬虚を突かれたような顔をし、早足で玄関に向かって私のバッグを漁り始めた。
すぐに見つかったらしい。彼の顔に、ほんの一瞬だけ気まずそうな色が浮かんだ。
「早く言えば済むことだろうが」
彼はぶつぶつと文句をこぼす。
私は何も答えず、背を向けて寝室へ行こうとした。
「待てよ」
文広に呼び止められ振り返ると、彼はローテーブルから小洒落たギフトボックスを手に取っていた。
「麻耶美がお前の具合が悪いって聞いて、これを渡してくれってさ。カモミールティーだ。胃に優しいらしいぞ」
彼は箱からティーバッグを一つ取り出し、お湯を注いで私に差し出した。
マグカップを受け取った瞬間、口をつける前から異臭が鼻を突いた。お茶は濁っており、水面には黒ずんだ粒子が浮いている。顔を近づけてよく見ると、ティーバッグの表面には白いカビがびっしりと繁殖していた。
途端に胃が激しくせり上がった。思わず口元を覆う。手から滑り落ちたカップが、ガシャッと音を立てて床に砕け散った。
「今度はなんだよ!」
文広は眉をひそめ、苛立ちも露わに声を荒らげた。
「麻耶美がわざわざ買ってくれたんだぞ! 大人しく飲めないのか!」
私はえずきながら、床に落ちたティーバッグを指差した。
「このお茶……カビが生えてる……」
文広はティーバッグを拾い上げて一瞥し、顔を曇らせた。だが、すぐに矛先を私へと向けてきた。
「だからなんだ? それでカップを叩き割るのか? お前はただ麻耶美が気に食わないだけだろ! あいつの善意を、お前はこんな風に踏みにじるのか!」
私は口元を拭った。
「善意? カビの生えたお茶を寄越すことが善意なの?」
「ただの事故だろうが!」
彼の声がさらに大きくなる。
「あいつは本気でお前と友達になろうとしてるのに、お前はいつも目の敵にしてばかりだ! あいつがお前のためにどれだけ気を揉んでるか分かってるのか!」
「気を揉む?」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「じゃあ、私があなたのために尽くしてきたことは?」
文広の顔が朱に染まった。
「話を逸らすな! 昔、会社を助けたからって、何でも俺に指図できると思うなよ! 俺だって十分に埋め合わせをしてるだろうが! バッグに服、俺の金を使ってる時は何も言わないくせに!」
「あなたの金を使った?」
私の声は震え始めていた。
「じゃあ、私があの時すべての人脈を頼って、あちこちから借金してまであなたの会社を救ったのは、何だったの?」
「それはお前が勝手にやったことだろ!」
彼は吠えた。
「俺が頼んだわけじゃない!」
その一言は、重いハンマーのように私の胸を打ち砕いた。
私はその場に立ち尽くし、目の前の男を見つめた。怒りに満ちたその顔を。悪びれる様子など微塵もないその表情を。
あの頃、両親は彼との結婚に反対していた。野心が強すぎ、利益しか眼中にない彼など、伴侶には相応しくないと。
けれど私は聞く耳を持たなかった。彼を愛していたから。彼の真心にすべてを賭けてもいいと思えたから、反対を押し切って結婚したのだ。
この数年間、私は徹夜で企画書を作成する彼に付き添い、広告代理店での有望なキャリアを投げ打って退職し、全力を注いで彼の会社を支えてきた。投資を募るため、クライアントと交渉するため、幾度となく胃から血を吐くまで酒を飲んだ。
そして、麻耶美が戻ってきた。
そこからすべてが変わった。
言い争いが日常になった。
彼は私のことを『器が小さい』『度量が狭い』『了見が狭い』と詰るようになった。
私と麻耶美を比べるようになった。麻耶美のように思いやりがなく、麻耶美のように芯が強くなく、麻耶美のように可愛げがないと。
私は乾いた笑いを漏らした。この数年間の私の献身は、彼にとってただの『勝手な行動』でしかなかったのだ。
「そうね、あなたの言う通りだわ」
私はひどく落ち着いた声で言った。
「私は彼女が気に食わない。嫉妬深くて、心の狭い女よ。これで満足?」
言い捨てて背を向け、自室に戻って鍵をかけた。
背後から、文広が物を手当たり次第に投げつける音が聞こえてきた。ガラスの割れる音。椅子が蹴り倒される音。そして、ドアを乱暴に叩きつけて出て行く巨大な音。
ドアに背を預けたまま、ずるずると床へ崩れ落ちる。
震える手でスマホを取り出した。
弁護士にメッセージを送る。
——離婚の書類を準備してください。できるだけ早く。
続いて、東京にいる大学の同級生である治美に電話をかけ、胃がんの治療を受けられる病院の手配を頼んだ。
それから数日、文広は家に帰ってこなかった。
好都合だ。静かに荷物をまとめ、すべての身辺整理ができる。
滑稽なことに、結婚して五年にもなるというのに、家中を探し回っても持っていきたいものなど何一つ見当たらなかった。美しい思い出もない。未練を残すような瞬間も。
あるのは、傷だらけになった自分自身だけだ。
——
その日の夜。シャワーを浴び終えた私は、ドレッサーの前に座ってスキンケアをしていた。
ふいにドアが開き、文広が入ってきた。ひどい酒の匂いを漂わせている。
鏡越しに彼の姿を捉え、私は身を強張らせた。
「お酒、飲んでるのね」
彼は何も言わず、背後から私を抱きすくめ、その手を不躾に這わせ始めた。首筋に吹きかかる吐息には、アルコールの鼻を突く匂いが混じっている。
「今日は金曜日だ」
首元で呟く彼の声。
「約束通り、帰ってきてやったぞ」
私はその手を振り払った。
「やめて……」
「まだ怒ってんのか?」
文広の声に苛立ちが混じる。
「ちゃんと帰ってきてやっただろ。これ以上何を望むって言うんだよ」
私は振り返り、血走った彼の目を見据えた。
「やめてって言ったの」
彼の顔から表情が消え、腕の力が抜け落ちた。
「一年前、子供が欲しいって言い出したのはお前だろ。今更気が変わったとでも言う気か? 俺がこの約束のために、どれだけの付き合いを断ってきたか分かってるのか!」
「もう、疲れたの……」
「疲れた?」
文広は皮肉げに口角を上げ、嘲笑を浮かべた。
「お前がどうしても妊活したいって喚かなきゃ、俺がこんなに律儀に帰ってくると思うか? 毎回毎回、死体みたいに横たわってるだけで。つまんねぇんだよ」
そう吐き捨てると、彼は再びドアを荒々しく閉めて部屋を出て行った。
階下から、車のエンジンを吹かす音が聞こえてくる。
私はドレッサーの前に座ったまま、鏡に映る自分を見つめた。青白い顔。虚ろな瞳。
一年前、確かに妊活を提案したのは私だった。
子供さえいれば、この破綻した結婚生活を、私たちの未来を救い出せると思い込んでいたから。
けれど今となっては、もう何の意味もない。
