第3章
――江里花視点
私がここを去る準備に追われていた矢先、文広は突然、麻耶美のクルーザーパーティーに私を無理やり連れ出そうとした。
もっともらしい口実を並べ立てて。
「お前が一緒に来ないと、後でまた勝手にやきもちを焼くからな」
私は断らなかった。彼に離婚を切り出すタイミングを探していたところだったからだ。
クルーザーの上は眩いほどにライトアップされ、耳をつんざくような音楽が鳴り響いていた。
乗船してすぐに、人混みの中で一際目を引くきらびやかなドレス姿の麻耶美が視界に入った。文広はすぐさま私を置き去りにし、彼女のもとへと駆け寄っていった。
周囲の数人が、探るような視線を私に向けながらヒソヒソと囁き合っている。
だが、そんなことは気にならなかった。
まっすぐ船尾の展望デッキへ向かい、手すりに寄りかかって、ただ潮風に身を任せた。
「江里花? まさかこんな所で会うなんてな!」
背後から、快活な男の声がした。
振り返ると――後藤寛人だった。文広の起業初期における最重要の投資家であり、泥沼に陥っていた会社を救い出してくれた恩人。あるいは、少なくとも文広はずっとそう信じ込んでいる。
彼はウイスキーのグラスを手に歩み寄り、笑みを浮かべて私と軽くグラスを合わせた。
「最後に会ってからどれくらいだ? 二年近くになるか?」
「そのくらいですね」私は微かに微笑んだ。
「寛人さん、お元気そうで何よりです」
「いやいや」彼は手を振る。
「それより君の方こそ、だいぶ痩せたな。ちゃんと体は労わらないと駄目だぞ」
それから彼は、文広の会社の最近の好調ぶりについて語り始めた。
「前四半期のデータを見たが、かなりいい数字だったな」寛人が言う。
「そういえば、あの時あのタイミングで投資が入らなければ、文広の会社はとうに……」彼は少し言葉を区切り、「今日という日は迎えられていなかっただろうな」
私は淡く笑った。
「ええ、あの時はあなたの先見の明に救われました」
寛人は意味ありげな視線を私に向けた。
「先見の明があったのは、俺じゃないさ」
数秒、沈黙が降りた。
寛人は声を潜める。
「江里花、あれからずいぶん経つが――文広はまだ真相を知らないんだな?」
私は少し黙り込み、遠くの海面を見つめた。
「彼に知らせる必要はありませんから」
当時、会社の資金繰りが悪化し、文広はあちこち駆け回ったものの、どの投資家にも見放されていた。私が自分の全貯金を取り崩し、寛人の名義でその救命資金を注ぎ込んだのだ。文広は未だに、寛人が自分のプロジェクトの将来性を見込み、その先見の明に賭けてくれたのだと思い込んでいる。
彼には知る由もない。その『先見の明』を持っていたのが、自分の妻であったことなど。
打ち明けようと考えたことがないわけではない。だが、彼がそれに負い目を感じてしまうのではないかと危惧していたのだ。
寛人は頷き、感嘆の声を漏らした。
「文広は君を妻にできて、人生最大の幸運を掴んだな。お前たち二人は、本当に羨ましいよ」
私は顔を向けて彼を一瞥し、口角を上げた。
「その羨望も、そう長くは続かないかもしれませんよ」
寛人はきょとんとした。
「どういう意味だ?」
「彼とは、離婚するつもりなんです」
寛人の手からグラスが滑り落ちそうになった。
「なんだって?! 今、なんて言った? 離婚? どうして――」
「誰が離婚するって?」
不意に、低い男の声が割って入った。
私と寛人が同時に振り向くと――いつの間にか背後には、険しい顔つきの文広が立っていた。
私は平然と答えた。
「友人の噂話をしていたの。最近、夫婦関係がうまくいってないみたいで」
寛人も即座に調子を合わせる。
「そ、そうそう! あの……ほら、法律事務所で働いてる子の話だ。本当に残念でな」
文広は眉をひそめ、疑わしげな視線を私たちの間で往復させた。明らかに信じていない様子だったが、すぐにはボロを見つけられなかった。
そこへ、麻耶美が優雅な足取りで近づいてきた。その両手にはシャンパングラスが握られている。
「江里花さん、どうぞ。乾杯しましょう」彼女はグラスを掲げ、甘ったるい笑みを浮かべた。
「本当にありがとうございます。こんなに心の広い方だから、文広さんも私にこのクルーザーをプレゼントしてくれたんですよね」
「普通の女の人なら、絶対怒っちゃいますよ。でも江里花さんは本当に物分かりがいいですよね、文広さん?」
文広は気まずそうに笑い、何も答えなかった。
麻耶美はさらに続ける。
「そういえば江里花さん、来週、文広さんが一緒に海に出てくれるって約束してくれたんです。ずっと私の夢だったんですよ。気にしませんよね?」
私はただ淡々と微笑み、グラスを掲げた。
「では、お二人で存分に楽しんでこられるよう、前もって乾杯を」
麻耶美は少し意外そうな顔をして私を見た。
文広は鋭く私の異変を察知したようだ。彼は眉を寄せ、問い詰めようとした。
「江里花、お前――」
「せっかく皆さん集まってるんだし」麻耶美が彼の言葉を遮り、パンと手を叩いた。
「ゲームでもしませんか!」
すぐに、一同は甲板中央のラウンジエリアに円になって座った。麻耶美の親友である七宮が空のボトルを取り出し、はしゃいだ声で言う。
「ボトルスピンをやろうよ! ボトルの口が向いた人が、くじを引いてお題をクリアするの。できなかったら罰ゲームね!」
場は熱を帯び、歓声が上がった。
第一ラウンド。回転したボトルが最後に指し示したのは、文広だった。
彼はくじを一枚引き、読み上げる。
「『右隣にいる人とポッキーゲームをして、十秒以上キープする』」
一同は冷やかしながら文広の右隣を見た――そこには、麻耶美が座っている。
場の空気が一瞬にして微妙なものになった。
麻耶美は『驚いた』ように口元を覆う。
「まあ、なんて偶然……」彼女はわざとらしく私に視線を向けた。
「これって、ちょっとまずいんじゃ……江里花さんもいらっしゃるのに……」
七宮が囃し立てる。
「何ビビってんの! ただのゲームじゃん!」
他の者たちも同調して野次を飛ばす。
全員の視線が私に集まり、反応を窺っていた。
私はソファに深く寄りかかり、淡々と言い放った。
「ただのゲームでしょう? 私は気にしないわ」
文広はさすがに不作法だと感じたのか。
「いや、別のお題に変え――」
七宮がすかさず遮る。
「文広さん、もしかして奥さんのこと怖いんですか?」
彼の顔色がサッと険しくなった。
「怖いわけないだろう!」
『奥さんが怖い』――その言葉が鍵となり、一瞬にして記憶の箱が開かれた。
――
一年前、私たちの結婚記念日の夜。
あの日、私と文広は麻耶美のことで三日も冷戦状態にあった。私は自ら歩み寄ろうと決意し、彼の行きつけのバーへと足を運んだ。
個室のドアを押し開けようとした時、中から男たちの笑い声が漏れ聞こえてきた。
「文広、今日は結婚記念日じゃないのか? なんで一人でヤケ酒なんて飲んでるんだよ」
文広の声には苛立ちが滲んでいた。
「その話はよせ。あいつ、また麻耶美のことで俺を無視しやがって」
「はぁ、女ってのはどいつもこいつも、すぐ嫉妬するからな」
「あいつは心が狭すぎるんだよ」文広は忌々しげに吐き捨てた。
「麻耶美は俺の友達だ。あいつに口出しされる筋合いなんてないだろうが」
別の友人が宥めるように口を挟む。
「そうは言っても、江里花ちゃんはお前に尽くしてくれてるじゃないか。この数年、お前のためにどれだけ苦労してきた? 会社のこともクライアントのことも、全部あの子がサポートしてくれたんだろう? あんなにいい奥さん、ちゃんと大切にしろよ」
別の誰かも同調する。
「そうそう。それに江里花ちゃんは仕事もできるし綺麗だ。麻耶美ちゃんとは少し距離を置いた方がいいぞ。万が一、江里花ちゃんが本気で怒って出て行ったら……」
文広はしばらく沈黙した。
すると別の声が、軽薄な口調で響いた。
「おいおい、文広を脅かすなよ。江里花ちゃんはあんなにこいつにベタ惚れなんだ、出て行くわけないだろ? それに、文広は嫁の尻に敷かれるようなタマじゃない。そうだろ?」
「俺があいつを恐れるだと? 冗談キツいぜ」文広は鼻で笑った。
一同がどっと沸く。
「あいつなんて、元々はただのキープに過ぎなかったんだ。もしあいつがそこそこ従順で、利用価値がなかったら、俺が結婚なんてすると思うか?」
彼の声がはっきりと鼓膜を打ち、一文字一文字が鋭い刃となって、私の心臓を深くえぐった。
私はドアの外に立ち尽くし、全身が凍りついた。
そして背を向け、よろめくようにその場を立ち去った。
その日の夜、私は駐車場に停めた車の中で一人、朝まで泣き明かしたのだ。
