第4章
あの言葉は、とうに消化できたつもりでいた。
もう気にしていないのだと、そう思っていた。
デッキから響く笑い声に、現実に引き戻される。
文広と麻耶美はすでに一本のポッキーの端と端をくわえており、周りの冷やかしの声は波のように高まり続けている。
艶めかしい空気が漂っていた。二人の顔がみるみる近づき、麻耶美はまつ毛を微かに震わせ、いかにも緊張しているような素振りをみせた。
「十、九、八……」
カウントがゼロになる直前、麻耶美が突然バランスを崩したように前へ身を乗り出した。
ポキッ——
小気味よい音を立ててビスケットが折れる。二人の唇が重なり合った。
周囲から割れんばかりの歓声と指笛が沸き起こった。
麻耶美は恥じらうように文広を押し返し、頬を赤らめる。
「きゃっ、ごめんなさい、わざとじゃないの……」
文広は我に返ると、無意識にこちらへ視線を向けた。
私は無表情のまま、彼らを見つめ返す。
文広はなぜか焦ったような顔をした。何かを言おうと口を開きかけたが、七宮に遮られた。
「はいはい、次いくよ!」
再び空き瓶が回される。今度は、瓶の口が私を指して止まった。
引いたくじにはこう書かれていた。『三分間のセクシーダンス』か『ウイスキー一気飲み』、二者択一。
七宮はテーブルの上のウイスキーボトルを私の前に押し出し、満面の笑みを浮かべた。
「江里花、どっちか選んで!」
私はその酒瓶を見下ろした。
胃がんを患っている今の体でこれを飲めばどうなるか、痛いほど分かっている。しかしダンスなんて……踊れるはずもない。
「ごめんなさい、私ちょっと——」
「江里花さん、もしかしてさっきのハプニング、まだ怒ってる?」
麻耶美がすかさず心配そうな声で遮り、無実を訴えるような顔を作った。
「あれは本当にただの事故で……わざとじゃないの……まさか、そのせいでゲームに参加してくれないわけじゃないよね?」
言外の意図は明白だった。ここで断れば、私が心が狭く、空気を読まずに腹を立てていることになってしまう。
七宮も便乗してくる。
「そうだよ、ただのゲームなんだから白けさせないでよ。みんなこんなに楽しくやってるのに、まさか空気壊す気?」
他の面々も口々に同調する。
文広もまた、苛立ち交じりに急かしてきた。
「早くどっちか選べよ。みんなを待たせるな」
私は深く息を吸い込んだ。
「お酒にする」
言い終わるや否や、七宮がウイスキーのボトルを私の手に押し付けてきた。
仰け反るようにして、喉を鳴らしながら一気に煽る。
アルコールが喉を焼き、胃に流れ込む一秒一秒がナイフでえぐられるように痛む。私は歯を食いしばり、必死に飲む手を止めまいとした。
だが半分ほど飲んだところで、限界が来た。
胃の腑から、無数の針で刺されるような激痛が走る。手は震え出し、額から冷や汗が噴き出した。
異変に気づいた文広が、止めようと立ち上がる。
「江里花——」
遅かった。
目の前が真っ暗になり、体の平衡を失って、私はそのまま後ろへと倒れ込んだ。
※
目を覚ますと、クルーザーの休憩室のベッドに寝かされていた。
頭上には眩しい白熱灯。ベッドの傍らには、文広が険しい目つきで座っていた。
「飲めないなら強がるな」
彼の声は低く沈んでいた。
「いつもそうだ。できないくせに意地を張る」
私は何も答えず、ただ顔を背けて窓の外を見つめた。
「お前……」
文広は言葉を区切り、探るような目を向けてきた。
「この前の病院の検査、何か問題でもあったのか? 俺にずっと何を隠してる?」
「別に」
私の声は酷く掠れていた。
「ただの持病。胃の調子が悪いだけ」
「胃が悪い?」
彼は声を荒らげた。
「ならどうしてあんなに酒を飲んだんだ? お前、まさか——」
「私がどうしたって?」
私は彼の言葉を遮り、向き直ってその目を見据えた。
「さっきはあなたも、早く選べって急かしたじゃない。今さら思いやったふり?」
文広は言葉に詰まり、顔色を青ざめさせたり赤くしたりしている。
「俺は……心配してるんだよ」
彼の口調が少し和らいだ。
「明日、病院での精密検査に付き添ってやる」
私はふっと笑った。自分でも驚くほど皮肉な笑みだった。
「来週は麻耶美さんと海に出る約束だったんじゃないの? 私のために大事な用事をふいにするなんて、やめてよ」
「江里花!」
彼は怒気を露わにした。
「当てつけがましい言い方はやめろ! 俺は今、お前を気遣ってるんだぞ!」
「気遣い?」
私は彼を見つめた。
「文広、私が一番好きな食べ物、知ってる?」
彼は呆然とした。
「私が何のアレルギーを持ってるか知ってる? ピーナッツ以外で」
彼は何も答えられず、その顔色は見る見るうちに険悪になっていく。
私は静かに目を閉じた。
「もういいわ。どうでもいいことだから」
その時、ドアが開いて麻耶美が顔を覗かせた。
「文広さん、みんな待ってるよ……あ、江里花さん目覚めたんだ? よかったぁ!」
文広は私をちらりと見て、立ち上がった。
「すぐ戻る」
「待って」
私は彼を呼び止め、バッグから書類を取り出した。
「これにサインして」
「なんだこれ?」
彼は受け取り、パラパラと適当にめくった。
「会社の書類。あなたのサインが必要なの」
私はひたすら平坦な声で言った。
「とても重要だから、今夜中に」
文広は急ぐように目を走らせ、ペンを取ってさらさらとサインを書き込んだ。
「他には?」
「何もないわ」
彼は振り返って出ていき、ドアのところで待っていた麻耶美と合流する。二人の影は、廊下の奥へと消えていった。
手元に残された、サイン済みの離婚届を見つめながら、私は力なく笑った。
こんなものだ。五年の結婚生活は、彼にとって目を通す価値すらないものだったのだ。
私は痛む体を引きずって起き上がり、荷物をまとめた。船が岸に着いた後、運転手に頼んで家まで送ってもらった。
※
翌朝早く、私はサインされた離婚届と結婚指輪を封筒に入れ、文広宛てに郵送した。
そしてスーツケースを引き、空港へと向かう。
治美がすでに東京での手配をすべて済ませてくれていた。トップクラスの病院での専門医による診察、治療方針、そしてマンションの一室。
搭乗待合室のシートに座り、スマートフォンの画面に次々と表示される未読メッセージの通知を眺める。すべて文広からだった。
開く気にはなれなかった。
搭乗を促すアナウンスが響く。私は立ち上がり、電源を切ろうとした。
その瞬間、スマートフォンが狂ったように震え出した。
文広からの着信。
一回、二回、三回……
随分とためらったすえ、最後に通話ボタンを押した。
「どこに行った!」
文広の怒鳴り声が響いた。
「どうして家にいない? 今日は検査に連れて行くって約束しただろ!」
