第1章
夏目結奈視点
最後の客が帰ったばかりで、リビングにはまだシャンパンの残り香が漂っていた。私は床から天井まで続く窓辺に立ち、ガラスを伝う雨粒に目をやる。無数の水滴の向こうで、M市の夜景が、まるで印象派の絵画のように滲んでいた。
今夜のパーティーは、私の大学卒業を祝うためのものだった。一晩中、名士たちが私を取り囲んで賛辞を並べ立てたが、私の意識はずっと結城隼人に釘付けだった。
彼はあの紺色のスーツを身にまとい、銀縁の眼鏡がクリスタルのシャンデリアの光を反射していた。その一挙手一投足から、人を惹きつけてやまない、冷たいほどの優雅さが放たれている。
私が十三歳の時、すべてが変わった。交通事故。両親は一瞬でいなくなった。
結城隼人は、皺の寄った黒いスーツ姿で病院に現れた。その目は悲しみで赤く腫れていた。
「君のお父さんと約束したんだ」
彼は途切れがちな声で言った。
「万が一のことがあれば、君の面倒は私が見ると」
夏目邸宅から、R市のマンションへ。友人の娘から……何へ? 被後見人? 私たちはその関係を定義したことがない。
最初は彼に反抗した――叫び、物を壊し、彼を突き放した。けれど、結城隼人は決して諦めなかった。私が泣き疲れて眠るまで夜通し寄り添い、日曜の朝には不格好なトーストを作り、学校の発表会には必ず最前列で見ていてくれた。
九年間、彼の揺ぎない存在と、静かな献身があった。
依存が、まったく別の何かに変わったのはいつだっただろう。感謝が、この身を焦がすような渇望に変わったのは。
私が自分の保護者に恋をした、その正確な瞬間を思い出すことはできない。
九年。十三歳から二十二歳まで。途方もない、九年という時間。
私は振り返った。結城隼人がコーヒーテーブルからワングラスを片付けている。その動きは優雅で、手慣れたものだった。専門の清掃スタッフがいるというのに、彼はいつもこうして自分で何でもこなしてしまう。
「結城隼人」
「ん?」
彼は顔を上げず、片付けを続けている。
私は深く息を吸った。今しかない。
「愛しています」
彼の動きが、空中で凍りついた。高価なクリスタルグラスが指の間から滑り落ち、厚い絨毯の上に、ことり、と小さな音を立てた。幸いにも、グラスは割れずにソファの下へと転がっていった。
だが、結城隼人自身は、まるで時が止まったかのように動きを止め、愕然とした表情で私を見つめていた。
彼はゆっくりと顔を上げ、私を見つめた。銀縁の眼鏡の奥にある深い鳶色の瞳が、信じられないという色に染まっている。
「……何?」
彼の声は微かに震えていた。
「今、何と?」
「愛していると言ったの」
私は彼に向かって歩き出した。一歩一歩、確信を込めて。
「保護者としてじゃなく、一人の男性として。あなたと一緒にいたい」
「……本気で、言っているのか?」
彼はもう一度尋ねた。今度は絞り出すような声で。
「もう、ふりをするのは嫌なの、結城隼人」
彼の正面に立ち止まる。彼の纏う、微かなコロンの香りが届くほど近くに。
「愛しています。あなたと一緒にいたい」
「ふざけるなっ!」
三度目の声は、ほとんど怒号に近かった。
雨脚が強まり、この夜のパーカッションのように窓ガラスを激しく叩いていた。リビングを満たすのは、私たちの呼吸と、私の心臓が打ち鳴らす速い鼓動だけだった。
結城隼人は眼鏡を外し、親指と人差し指でこめかみを押さえた。彼の神経質になった時の癖――私はそれを知りすぎていた。
「結奈、正気か?」
彼の声は低く、危険な響きを帯びていた。
「俺は君の保護者だ!君のお父さんに、君を守ると誓ったんだぞ!」
「なら、一生守って」
私はさらに一歩近づいた。
「私たちは血が繋がっているわけじゃない。何がいけないの?」
「これが間違いなんだ!」
彼は激昂して立ち上がった。その目は怒りに燃えている。
「完全に間違っている!」
でも、私には見えた。その怒りの奥で、何かが一瞬よぎったのを。恐怖? それとも……同じ渇望?
「どうして間違いなの?」
私は問い詰める。
「あなたも同じ気持ちで、それが怖いから?」
彼は背を向け、書斎の方へ大股で歩いていった。何かをがさごそと探す音、そして電話をかける音が聞こえる。
「今夜、L市へ飛びたい。プライベートジェットを一時間以内にチャーターしてくれ」
電話口の彼の声は、恐ろしいほど冷静だった。
私の心臓が、奈落の底へ落ちていく。
「私を追い出すつもり?」
私は書斎に駆け込んだ。
「結城隼人、何から逃げてるの?」
彼は電話を切り、私に向き直った。その深い鳶色の瞳には、一片の温かみもなかった。
「荷物をまとめろ。一時間後に出る。これ以上、馬鹿げた話は聞きたくない」
「馬鹿げた?」
胸に鋭い痛みが走った。
「じゃあ、今私が言ったことは、あなたにとって何の意味もないの? 馬鹿げたことなの?」
「結奈、君は混乱しているだけだ」
その口調は、まるでビジネスの取引を処理するかのように冷淡だった。
「冷静になってr、自分が何を言っているのか考える時間が必要だ」
「私ははっきり考えてるわ!」
私の声が上ずる。
「今までで一番、はっきりと!」
しかし、彼はもう書斎を出て行ってしまった。心を踏み躙られたまま、私はそこに一人、立ち尽くしていた。
一時間後、私たちは空港へ向かう高級セダンの中にいた。雨はまだ降り続き、街灯が水滴を通してぼんやりとした光の輪を屈折させている。私は後部座席に、結城隼人はその向かいに座っていた。私たちの間の距離は、まるで広大な海のように感じられた。
「会いに来てくれないの?」
私はついに、少し詰まった声で口を開いた。
「一日だけでも?」
「いや」
彼の返事は短く、残酷だった。
「金以外は何も与えない」
ついに涙が溢れ出した。九年間を共に過ごし、九年間の日常を分かち合った。それを、彼はたった一言で死刑宣告したのだ。
「本当に、そんなに酷い人だったの?」
「君のためだ」
彼は窓の外に視線を向け、私と目を合わせようとはしなかった。
「そして、俺のためでもある」
車が空港で止まり、エンジンのハミングが徐々に消えていく。雨音がはっきりとしてきて、まるで私の心臓を叩くかのようにルーフを打ち鳴らした。
私は車を降りた。私の荷物はすでに飛行機に積み込まれている。結城隼人は車のそばに立ち、雨が彼の髪を濡らしていたが、それでもなお、あの人を惹きつける優雅さを保っていた。
タラップへと歩き、そして不意に振り返った。雨で視界が滲んでいたが、それでも彼の顔ははっきりと見えた。
「結城隼人」
雨の夜を切り裂くように、私は叫んだ。
「よく聞いて――私は絶対にあなたを諦めない。たとえ、それで死ぬことになったとしても!」
私は振り返らずに機内へと乗り込んだ。でも、彼がまだそこに立っているのは分かっていた。雨が彼の服を、そしてあの念入りに保たれた完璧なイメージを、びしょ濡れにしているのも。
飛行機のエンジンが轟音を立てて始動した。小さな丸窓から、彼がまだ雨の中に彫像のように立っているのが見えた。
彼が知らないこと。それは、私にはもう計画があるということ。完璧で、緻密で、絶対に失敗しない計画が。
L市は、その第一歩にすぎない。
