第1章
有栖川礼希視点
スーツケースの車輪が石畳をこする音を立てる。見慣れた別荘が近づいてきた。
P市の午後の陽射しは苛烈で、ヤシの葉が濃い影を落としている。六年ぶりだというのに、この場所は何も変わっていないように見えた。同じテラコッタの屋根、同じ蔦の絡まる壁、ドアの脇に無造作に置かれたラベンダーの鉢植えまで、記憶のままだ。
でも、私は変わった。
彼はどうだろう?
呼び鈴を鳴らす前に、江奈さんがドアを開けた。銀色がかった灰色の髪はフレンチツイストに結い上げられ、ターコイズのネックレスが胸元で揺れている。記憶の中の彼女より、ずっとエレガントだった。
「礼希!ますます綺麗になって」
ラベンダーの香りがふわりと漂い、一瞬で十五歳の頃に引き戻される。
「旅行はどうだった?」
この香りを嗅ぐと、いつも始まりの日を思い出す。
母が亡くなり、父が悲しみに打ちひしがれていた時、白羽江奈さんはまるで守護天使のように現れた。辛抱強くて、温かくて、当時の私たちが必要としていたすべてをくれる人だった。彼女は、ほとんど誰とも口を利かない、陰のある十七歳の芸術家――成宮涼を連れていた。
父はその頃、心の痛みを削り取るように彫刻に没頭していた。そんな私たちを繋ぎとめてくれたのが、江奈さんだった。
涼と私は兄妹になるはずだったけれど、そんなふうに感じたことは一度もなかった。年が近すぎたからか、それとも、誰も見ていないところで彼が私に向ける、あの眼差しのせいだったのか。
三年間、私たちはまるで儚く美しい泡の中にいるような、特別な毎日を送っていた。彼が私にアートを教え、私が彼に下手くそな十代の詩を読んで聞かせる、そんな日々。
けれど私が十八歳になった時、すべてが複雑になってしまった。だから私は逃げ出した。まずは大学へ、それから一年間の旅へ。彼と、私たちの間にあった「何か」から距離を置くためなら、何でもよかった。
彼を忘れられるふりをした、六年間。
江奈さんに続いて、アートで満たされたリビングに入る。懐かしい匂い――油絵の具と、コーヒーと、お香の香り。
「悪くなかったよ。涼はどこ?」
彼女の表情が翳った。
「上のアトリエよ。あの子……今はアトリエに籠もりがちでね。ずいぶん変わってしまったの、礼希」
こもりがち?
眠れない私に、夜が明けるまで付き合ってくれたあの涼が?
二階からマイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』が流れてくる。彼が絵を描く時に聴く音楽だ。
「私が帰ってきたこと、知ってるの?」
「もちろんよ。きっと大事な作品に取り組んでいるのね。芸術家には一人の時間が必要でしょう?」
江奈さんは私がスーツケースを階段まで運ぶのを手伝ってくれた。
「あなたの部屋、出たまんまだから。Wi-Fiのパスワード、いるわよね?」
「うん、ありがとう」
彼女は一瞬ためらった。
「……涼に聞いてみたら?あの子なら覚えているはずよ」
私は頷いた。これが、私と涼が話すきっかけになるように、という江奈さんの気遣いだとすぐに分かったから。江奈さんはいつだって、そういう人だった。
夕方六時、私はようやく覚悟を決めて、あの階段を上り始めた。一段上るごとに、十五歳で初めてこの階段を上った時の緊張が蘇る。あの頃は母を亡くしたばかりで、世界は灰色だった。涼に出会うまでは。
彼のアトリエのドアは半開きで、油絵の具の濃密な匂いが漂ってくる。私はドアフレームをノックした。
「涼?WiFiのパスワード、教えてほしいんだけど」
返事はなかったが、音楽が止んだ。
ドアを押し開けて、私は凍りついた。
イーゼルの前に、涼が背を向けて立っていた。上半身は裸で、絵の具まみれのジーンズだけを穿いている。記憶の中よりずっと広い背中だった。腕の動きに合わせて、鍛えられた背中の筋肉がしなやかに波打つ。天窓から差し込む光が、彼の肌に金色の影を落としていた。
足音に気づいた彼が、弾かれたように振り返る。そして、視線が絡み合った。
六年間。
あの頃と変わらない顔だった。深い青の瞳、通った鼻筋、シャープな顎のライン。でも、何かが違った。無精髭のせいか、それとも、読み取ることのできない眼差しのせいか。
彼の手にした絵筆から、深紅の絵の具が滴り落ちていた。
小さく舌打ちをすると、彼は慌てて筆を置き、近くの椅子から白いシャツを掴み取った。だが、焦りすぎたせいで袖が絡まり、うまく腕を通すことができないでいた。
「涼のアトリエ、相変わらずすごいことになってるね」
できるだけ軽い声で言ったつもりだったけれど、心臓は破裂しそうなくらい激しく脈打っていた。
アトリエは確かに惨状だった。キャンバス、パレット、絵の具のチューブが散乱し、床は考えつく限りの色で染まっている。でも、その混沌の中には奇妙な秩序があって、まるで彼の思考のプロセスを覗いているようだった。
彼はようやくシャツに腕を通したが、ボタンは留めなかった。
「何か用か?作業中なんだが」
声は記憶の中より低くなっていたけれど、氷のように冷たかった。
「Wi-Fiのパスワード。江奈さんが、あなたなら知ってるって」
Wi-Fiのパスワードを教えてもらった後、彼はイーゼルに向き直り、意図的に私の視線を避けた。
「用が済んだなら、出て行ってくれ」
立ち去るべきだった。「ありがとう」と言って、出ていくべきだった。でも、私の目はどうしてもアトリエの中をさまよってしまう。壁には新しい作品がいくつも掛かっていて、その色彩は強烈で緊張感に満ち、どこか抑圧された美しさを湛えていた。隅には、使い古されたスケッチブックの山。
「まだマイルス・デイヴィスが好きなんだ」
彼はようやくこちらを振り返り、その目に驚きがよぎった。
「覚えてたのか」
「いろんなこと、覚えてるよ」
私たちは数秒間、言葉にできない緊張感が満ちた空気の中で見つめ合った。やがて彼は視線を逸らし、キャンバスに向き直る。
「仕事しないと」
「もちろん」
私はドアに向き直った。
「夕食でね」
「夕食には食べない」
私は足を止めた。
「どうして?」
「食べたくないからだ」
シンプルで、ぶっきらぼうな答え。とても彼らしい。でも、その下に何か別のものを聞き取った気がした。疲労か、あるいは痛みか。
「わかった」
私は言った。
「じゃあ、大事な作品のお邪魔はしないわ」
ドアを閉め、廊下の壁に背中を預ける。心臓はまだ速く鼓動していた。たった数分が、一世紀のように感じられた。
彼は本当に、こんなに変わってしまったの?それとも……ただ私に会いたくないだけ?
夜の十時、江奈さんの後片付けを手伝った後、私はこっそりと二階へ忍び込んだ。涼のアトリエのドアには鍵がかかっていたけれど、彼がいつも忘れているサイドドア――バルコニーへ続くドアのことは覚えていた。
ドアは、少しだけ開いていた。
天窓から月明かりが差し込む中、私は抜き足差し足で部屋に入る。絵の具の匂いに、コーヒーの苦い香りが混じり合っていた。
スマホのライトで、ルーターを探す。光が、壁の裏にあるカーテンのかかった一角を照らし出した。
好奇心に駆られて、布の端をめくる。
息が、止まった。
壁一面が、写真で埋め尽くされていた。――私の写真。十五歳から今まで、あらゆる季節、あらゆる表情の私がそこにいた。知っているものもあれば、知らないものもあった。庭で本を読んでいる私、コーヒーを淹れている私、夕陽を見つめている私。
それぞれの写真の隣には、対応するスケッチが添えられていた。木炭で、鉛筆で、柔らかく、そして精密に描かれている。全身の肖像、細部の描写――私の目、手、微笑み。
最も衝撃的だったのは、中央に飾られた巨大な油絵だった。
今日の服装の私――白いTシャツ、ジーンズ、キャンバスシューズ。信じられないほど細密で、コーヒーの小さな染みまで描かれている。絵の中の私は、自分でも気づかなかったような優しさで微笑んでいた。
手が震え、ライトの光が揺れる。
イーゼルの横に、紙が散らばっていた。一枚を拾い上げると、数字と文字がびっしりと書き込まれている。一番上には、太い黒マーカーでこう書かれていた。
『彼女のいない2187日目』
他の紙には、2186日目、2185日目……と、1日目まで遡っていく。
彼は数えていたのだ。私たちが離れていた、一日一日を。
一番新しい紙、今日の日付の下には、こうあった。
『0日目――彼女が帰ってきた』
足から力が抜けていく。六年間、数え続け、描き続け、恋焦がれ、待ち続けていた。
私はてっきり、彼は忘れてしまったのだと思っていたのに。
そっと部屋を出て、自室に戻った。でも、眠気は一向に訪れない。あの絵、あの数字、そして彼の読み取れない眼差し。
今ならわかる。
あれは冷たさじゃない。恐怖だ。
彼も怖がっている。再び近づくことを、再び私を失うことを。
私は天井を見つめたまま横たわっていた。
成宮涼。私の、義理の兄になるはずだった人。あの表向きは冷たいけれど、内に深い情熱を秘めた芸術家は、六年間ずっと、私が帰ってくるのを待っていてくれたんだ。
そして私は、今、帰ってきた。
