鍵のかかったアトリエで、あなたは私の夢を見ている

鍵のかかったアトリエで、あなたは私の夢を見ている

猫又まる · 完結 · 26.5k 文字

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紹介

あの夜、私は眠っていなかった――。

六年前の深夜。義理の兄成宮涼が、眠る私にそっとキスを落とした瞬間を、私ははっきりと覚えている。
翌朝、彼は何事もなかったかのように私の前から姿を消した。きっと私が眠っていたと思って、自分を「妹に手を出した化け物」だと責めて。

でも、どちらも間違いだった。

私は眠っていなかった。そして彼は化け物なんかじゃない。
ただ、私と同じように――愛してはいけない人を、愛してしまっただけ。

六年後、私は彼の元へ戻ってきた。
そして発見したのは、隠された地下のアトリエ。壁一面を埋め尽くす無数のキャンバス。
そこに描かれていたのは、すべて私の姿だった。

笑っている私、泣いている私、怒っている私、眠っている私――。
どの絵も、彼が六年間抱き続けてきた想いで溢れていた。口にできなかった愛の言葉が、筆先から溢れ出していた。

「涼、もう逃げないで」

彼は私を守るために距離を置いてきたつもりでいる。でも私だって、この六年間をただ待っていたわけじゃない。
帰ってくる日を夢見て、私たちの間にある「義理の兄妹」という壁を乗り越える準備を、ずっと整えてきた。

あの夜から止まったままの時計を、今度こそ動かしてみせる。

チャプター 1

 有栖川礼希視点

 スーツケースの車輪が石畳をこする音を立てる。見慣れた別荘が近づいてきた。

 P市の午後の陽射しは苛烈で、ヤシの葉が濃い影を落としている。六年ぶりだというのに、この場所は何も変わっていないように見えた。同じテラコッタの屋根、同じ蔦の絡まる壁、ドアの脇に無造作に置かれたラベンダーの鉢植えまで、記憶のままだ。

 でも、私は変わった。

 彼はどうだろう?

 呼び鈴を鳴らす前に、江奈さんがドアを開けた。銀色がかった灰色の髪はフレンチツイストに結い上げられ、ターコイズのネックレスが胸元で揺れている。記憶の中の彼女より、ずっとエレガントだった。

「礼希!ますます綺麗になって」

 ラベンダーの香りがふわりと漂い、一瞬で十五歳の頃に引き戻される。

「旅行はどうだった?」

 この香りを嗅ぐと、いつも始まりの日を思い出す。

 母が亡くなり、父が悲しみに打ちひしがれていた時、白羽江奈さんはまるで守護天使のように現れた。辛抱強くて、温かくて、当時の私たちが必要としていたすべてをくれる人だった。彼女は、ほとんど誰とも口を利かない、陰のある十七歳の芸術家――成宮涼を連れていた。

 父はその頃、心の痛みを削り取るように彫刻に没頭していた。そんな私たちを繋ぎとめてくれたのが、江奈さんだった。

 涼と私は兄妹になるはずだったけれど、そんなふうに感じたことは一度もなかった。年が近すぎたからか、それとも、誰も見ていないところで彼が私に向ける、あの眼差しのせいだったのか。

 三年間、私たちはまるで儚く美しい泡の中にいるような、特別な毎日を送っていた。彼が私にアートを教え、私が彼に下手くそな十代の詩を読んで聞かせる、そんな日々。

 けれど私が十八歳になった時、すべてが複雑になってしまった。だから私は逃げ出した。まずは大学へ、それから一年間の旅へ。彼と、私たちの間にあった「何か」から距離を置くためなら、何でもよかった。

 彼を忘れられるふりをした、六年間。

 江奈さんに続いて、アートで満たされたリビングに入る。懐かしい匂い――油絵の具と、コーヒーと、お香の香り。

「悪くなかったよ。涼はどこ?」

 彼女の表情が翳った。

「上のアトリエよ。あの子……今はアトリエに籠もりがちでね。ずいぶん変わってしまったの、礼希」

 こもりがち?

 眠れない私に、夜が明けるまで付き合ってくれたあの涼が?

 二階からマイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』が流れてくる。彼が絵を描く時に聴く音楽だ。

「私が帰ってきたこと、知ってるの?」

「もちろんよ。きっと大事な作品に取り組んでいるのね。芸術家には一人の時間が必要でしょう?」

 江奈さんは私がスーツケースを階段まで運ぶのを手伝ってくれた。

「あなたの部屋、出たまんまだから。Wi-Fiのパスワード、いるわよね?」

「うん、ありがとう」

 彼女は一瞬ためらった。

「……涼に聞いてみたら?あの子なら覚えているはずよ」

 私は頷いた。これが、私と涼が話すきっかけになるように、という江奈さんの気遣いだとすぐに分かったから。江奈さんはいつだって、そういう人だった。

 ---

 夕方六時、私はようやく覚悟を決めて、あの階段を上り始めた。一段上るごとに、十五歳で初めてこの階段を上った時の緊張が蘇る。あの頃は母を亡くしたばかりで、世界は灰色だった。涼に出会うまでは。

 彼のアトリエのドアは半開きで、油絵の具の濃密な匂いが漂ってくる。私はドアフレームをノックした。

「涼?WiFiのパスワード、教えてほしいんだけど」

 返事はなかったが、音楽が止んだ。

 ドアを押し開けて、私は凍りついた。

 イーゼルの前に、涼が背を向けて立っていた。上半身は裸で、絵の具まみれのジーンズだけを穿いている。記憶の中よりずっと広い背中だった。腕の動きに合わせて、鍛えられた背中の筋肉がしなやかに波打つ。天窓から差し込む光が、彼の肌に金色の影を落としていた。

 足音に気づいた彼が、弾かれたように振り返る。そして、視線が絡み合った。

 六年間。

 あの頃と変わらない顔だった。深い青の瞳、通った鼻筋、シャープな顎のライン。でも、何かが違った。無精髭のせいか、それとも、読み取ることのできない眼差しのせいか。

 彼の手にした絵筆から、深紅の絵の具が滴り落ちていた。

 小さく舌打ちをすると、彼は慌てて筆を置き、近くの椅子から白いシャツを掴み取った。だが、焦りすぎたせいで袖が絡まり、うまく腕を通すことができないでいた。

「涼のアトリエ、相変わらずすごいことになってるね」

 できるだけ軽い声で言ったつもりだったけれど、心臓は破裂しそうなくらい激しく脈打っていた。

 アトリエは確かに惨状だった。キャンバス、パレット、絵の具のチューブが散乱し、床は考えつく限りの色で染まっている。でも、その混沌の中には奇妙な秩序があって、まるで彼の思考のプロセスを覗いているようだった。

 彼はようやくシャツに腕を通したが、ボタンは留めなかった。

「何か用か?作業中なんだが」

 声は記憶の中より低くなっていたけれど、氷のように冷たかった。

「Wi-Fiのパスワード。江奈さんが、あなたなら知ってるって」

 Wi-Fiのパスワードを教えてもらった後、彼はイーゼルに向き直り、意図的に私の視線を避けた。

「用が済んだなら、出て行ってくれ」

 立ち去るべきだった。「ありがとう」と言って、出ていくべきだった。でも、私の目はどうしてもアトリエの中をさまよってしまう。壁には新しい作品がいくつも掛かっていて、その色彩は強烈で緊張感に満ち、どこか抑圧された美しさを湛えていた。隅には、使い古されたスケッチブックの山。

「まだマイルス・デイヴィスが好きなんだ」

 彼はようやくこちらを振り返り、その目に驚きがよぎった。

「覚えてたのか」

「いろんなこと、覚えてるよ」

 私たちは数秒間、言葉にできない緊張感が満ちた空気の中で見つめ合った。やがて彼は視線を逸らし、キャンバスに向き直る。

「仕事しないと」

「もちろん」

 私はドアに向き直った。

「夕食でね」

「夕食には食べない」

 私は足を止めた。

「どうして?」

「食べたくないからだ」

 シンプルで、ぶっきらぼうな答え。とても彼らしい。でも、その下に何か別のものを聞き取った気がした。疲労か、あるいは痛みか。

「わかった」

 私は言った。

「じゃあ、大事な作品のお邪魔はしないわ」

 ドアを閉め、廊下の壁に背中を預ける。心臓はまだ速く鼓動していた。たった数分が、一世紀のように感じられた。

 彼は本当に、こんなに変わってしまったの?それとも……ただ私に会いたくないだけ?

 ---

 夜の十時、江奈さんの後片付けを手伝った後、私はこっそりと二階へ忍び込んだ。涼のアトリエのドアには鍵がかかっていたけれど、彼がいつも忘れているサイドドア――バルコニーへ続くドアのことは覚えていた。

 ドアは、少しだけ開いていた。

 天窓から月明かりが差し込む中、私は抜き足差し足で部屋に入る。絵の具の匂いに、コーヒーの苦い香りが混じり合っていた。

 スマホのライトで、ルーターを探す。光が、壁の裏にあるカーテンのかかった一角を照らし出した。

 好奇心に駆られて、布の端をめくる。

 息が、止まった。

 壁一面が、写真で埋め尽くされていた。――私の写真。十五歳から今まで、あらゆる季節、あらゆる表情の私がそこにいた。知っているものもあれば、知らないものもあった。庭で本を読んでいる私、コーヒーを淹れている私、夕陽を見つめている私。

 それぞれの写真の隣には、対応するスケッチが添えられていた。木炭で、鉛筆で、柔らかく、そして精密に描かれている。全身の肖像、細部の描写――私の目、手、微笑み。

 最も衝撃的だったのは、中央に飾られた巨大な油絵だった。

 今日の服装の私――白いTシャツ、ジーンズ、キャンバスシューズ。信じられないほど細密で、コーヒーの小さな染みまで描かれている。絵の中の私は、自分でも気づかなかったような優しさで微笑んでいた。

 手が震え、ライトの光が揺れる。

 イーゼルの横に、紙が散らばっていた。一枚を拾い上げると、数字と文字がびっしりと書き込まれている。一番上には、太い黒マーカーでこう書かれていた。

『彼女のいない2187日目』

 他の紙には、2186日目、2185日目……と、1日目まで遡っていく。

 彼は数えていたのだ。私たちが離れていた、一日一日を。

 一番新しい紙、今日の日付の下には、こうあった。

『0日目――彼女が帰ってきた』

 足から力が抜けていく。六年間、数え続け、描き続け、恋焦がれ、待ち続けていた。

 私はてっきり、彼は忘れてしまったのだと思っていたのに。

 そっと部屋を出て、自室に戻った。でも、眠気は一向に訪れない。あの絵、あの数字、そして彼の読み取れない眼差し。

 今ならわかる。

 あれは冷たさじゃない。恐怖だ。

 彼も怖がっている。再び近づくことを、再び私を失うことを。

 私は天井を見つめたまま横たわっていた。

 成宮涼。私の、義理の兄になるはずだった人。あの表向きは冷たいけれど、内に深い情熱を秘めた芸術家は、六年間ずっと、私が帰ってくるのを待っていてくれたんだ。

 そして私は、今、帰ってきた。

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