第3章
有栖川礼希視点
翌朝、午前八時。白いレースのカーテン越しに朝日が差し込み、木製のダイニングテーブルを照らしていた。私はカウンター席に座り、江奈さんの作ったフレンチトーストをちびちびとつつきながら、成宮涼の朝の日課を観察していた。ブラックコーヒー、砂糖はなし。新聞は文化欄。そして時折、眉間に寄る皺。
三日間、彼はまだ、注意深く私の視線を避け続けている。
突然、江奈さんの携帯が鳴り、彼女は弾んだ声で電話に出た。
「倉持先生!ええ、今夜ですか?ちょうどよかったです!」
私のフォークが宙で止まり、成宮涼の読んでいた新聞が微かに震えた。
「光里さんなら、絶対に涼のことを気に入るわ」
江奈さんは私たちの方を向くと、まるで仲人のような熱意に目を輝かせた。
「倉持先生にはね、いつも涼の自慢話ばかりしているのよ」
「「母さん、俺は恋愛に興味ない」
成宮涼の声はいつもより冷たく、私たちに視線を向けることすらなかった。
「馬鹿なこと言わないの。あなたもう二十六でしょ。一生独身でいるわけにもいかないのよ」
江奈さんは席に着き、その口調には有無を言わせぬ響きがあった。
「倉持光里さんは小児科医よ――知的で、美しくて、あなたとも話が合うはず。今夜七時、霧森レストランで」
さっきまで美味しかったフレンチトーストが、胃の中で鉛のように重くなるのを感じた。
「いいじゃないですか、涼にも社交は必要ですよ」
頭の中では警報が鳴り響いているのに、私は努めて何でもないような明るい声を出した。
「私は大学の方をのぞいてきますから、デートの計画の邪魔はしません」
成宮涼が、ようやく私を見た。その深い瞳には、私には読み解けない感情が宿っていた。困惑?失望?それとも……安堵?
ちくしょう、と私は思った。会ったこともない倉持光里なんかに、このまま負けてたまるか。
午前十一時、P市芸術大学の写真学科ギャラリーは活気に満ちていた。モダンなガラス張りの建物は太陽の光を惜しげもなく取り込み、壁に展示された学生たちの作品を照らし出している。
気分転換のつもりで来たのに、私はいつしか『アーバン・インティマシー』と題された連作に心を奪われていた。
モノクロの写真が、都会の中のプライベートな瞬間を切り取っている。地下鉄で抱き合う恋人たち、コーヒーショップで視線を交わす見知らぬ同士、公園で別れ話の末に流される涙。どの写真も、生々しい感情の激しさで脈打っていた。
「突然ごめん。君、すごく絵になるね」
背後から、穏やかな男性の声がした。
「作品のモデルになってくれないかな?」
振り返ると、そこにいたのは二十三歳くらいの青年だった。琥珀色の瞳を持ち、首からはヴィンテージカメラを提げている――アーティスト特有の、鋭い観察眼を感じさせる。
「この写真を撮った方ですか?」
私は壁を指さした。
「川崎海です」
彼は手を差し出した。
「君が俺の作品を見ている時の表情を見てたんだ。すごく惹きつけられるものがあった。骨格が完璧だ、特にこの角度から見ると」
彼は私の顔の角度をそっと直した。そのプロフェッショナルでありながら自然な手つきに、絶好のチャンスが目の前に転がり込んできたことを悟った。
「どんなプロジェクトなんですか?」
私は意図的に強い興味を示した。
「感情をテーマにしたポートレートシリーズ。現代女性の内面世界を探求してるんだ」
川崎海の目が輝いた。
「複雑な感情を表現できるモデルを探していてね。もちろん、報酬は出すよ」
完璧だ、と心の中でガッツポーズをした。成宮涼に、私がただ彼を待っているだけの子供じゃないってことを見せつけてやれる。
「面白そうですね」
私は微笑んだ。
「いつから始めますか?」
「時間があるなら、今日の午後からでもテスト撮影できるけど」
川崎海は私に名刺を渡した。
「俺のアトリエ、ここから遠くないんだ」
私は名刺を受け取り、わざと指先が彼の指に触れるようにした。
「有栖川礼希です。楽しみにしています」
午後三時、川崎海が仮で使っているアトリエは、改装された工業ビルのワンフロアを占めていた。むき出しのレンガ壁と最新鋭の写真機材が対照をなし、その空間は創造的な自由の雰囲気に満ちていた。
「肩の力を抜いて、視線はこっちに……そう、それでいい」
川崎海がカメラの向こうから指示を出す。シャッター音が広い空間に響き渡った。
「君はカメラの前で自然体だね――珍しいよ」
私は彼の提案するポーズに従いながら、わざと髪を肩に流してみせた。プロに撮影されるという感覚は陶酔的で、まるで自分が何かの芸術を創造する手助けをしているかのようだった。
「もう少しこっちに寄って」
川崎海が近づいてきて私の位置を調整し、その手が顎に触れた。
「完璧だ」
まさにその瞬間、アトリエのドアが勢いよく開け放たれた。
「礼希、母さんが探してる」
成宮涼の声が、氷のように空気を切り裂いた。彼は戸口に立ち、顔は青ざめ、両手は固く拳を握りしめている。川崎海の手がまだ私の顔に触れているのを見て、彼の目に何か危険な光が宿ったのを、私は確かに見た。
「あなたが、噂の義理のお兄さん?」
川崎海は振り返ったが、成宮涼の登場に全く動じる様子はなく、むしろ面白がるような笑みを浮かべた。
「礼希さんから聞いてましたよ。成宮涼さん、でしたっけ?画壇では有名人だ」
空気中に緊張が走るのを感じたが、私はその火に油を注ぐことにした。
「川崎海、こちらが成宮涼です。成宮涼、川崎海が私に専属モデルになってほしいって」
成宮涼の視線が、川崎海と私の間を、まるで獲物の危険性を値踏みするかのように行き来した。
「面白いだな」
成宮涼の声は、恐ろしいほどに静かだった。
「礼希、母さんが本当に探してる。今すぐだ」
「もちろん」
私はわざと川崎海の方へ歩み寄り、成宮涼の目の前で連絡先を交換してみせた。
「続きは明日でもいいですか?」
「もちろん」
川崎海は私の手を取り、指先に軽くキスをした。成宮涼の表情がますます暗くなっていくのを、完全に無視して。
「君は俺が今まで仕事した中で、一番有望なモデルだ」
アトリエを出ると、成宮涼は何も言わなかった。だが、彼から放たれる怒りと、それ以上の何か複雑な感情が伝わってきた。嫉妬? 独占欲?それとも、単なる兄としての保護欲?
それが何であれ、と私は思った。少なくとも、彼は反応している。
午後六時、私はわざと午後の撮影で着た黒いドレスに着替えた。身体のラインを強調するタイトなデザインに、胸元が深く開いたVネックが、これ以上なく挑発的だった。成宮涼がデートに出かける直前だとわかっていたし、この姿を彼の記憶に焼き付けておきたかった。
案の定、成宮涼は時間通りに階下へ降りてきた。紺色のスーツを着て、髪も完璧にセットされている。私の服装を見ると、彼は階段の下で足を止めた。
「どこへ行くんだ?」
彼の声は強張っていた。
「「川崎さんに、今夜のギャラリーのオープニングパーティに誘われたの」
私は鏡の前で髪を直しながら、さりげなく答えた。
「あなたと倉持光里さんも楽しんできてね」
成宮涼はドアのそばに立ち、取っ手に手をかけたまま、三十秒間も身動き一つしなかった。彼の顔の筋肉が引きつっているのが見え、まるで激しい内面の葛藤と戦っているようだった。
ちょうどその時、私の携帯が鳴った。発信者は、川崎海。
私は成宮涼の目の前で電話に出た。自分でも吐き気がするほど甘い声で。
「もしもし、海さん?もう準備できてるわ……」
「いいね、外にいるよ」
川崎海の声は、成宮涼にも聞こえるほどはっきりと届いた。
電話を切った後、私はクラッチバッグを掴んでドアへ向かった。成宮涼はまだそこに、石像のように立ち尽くしている。
「私のことは待ってなくていいから」
彼のそばを通り過ぎる時、私はわざと香水の香りを空気に漂わせながら、そう囁いた。
