第1章 離婚しよう
スローン視点
「おめでとうございます。妊娠6週です。胎児の状態も良く、とても元気ですよ」
検査結果の紙を受け取った瞬間、夢でも見ているみたいだった。……私が、本当に妊娠した?
そっと下腹に手を当てる。驚きと喜びがない交ぜになって、胸の奥がじわりと熱くなった。
モントクレア家はずっと子どもを望んでいた。ジャレッドが父親になると知ったら、きっと――喜ぶはず。そう思った。
帰り道、わざわざ遠回りして、いちばん新鮮な魚とステーキを買った。どちらもジャレッドの好物だ。
夕方、玄関から鍵が回る音がした。
最後の一皿をテーブルに置き、手を拭く。なぜだか胸の奥がざわついて、妙に緊張していた。
ドアが開き、ジャレッドが入ってくる。スーツの上着を腕に掛けたままの、すらりとした長身。黒い眉と目元が印象的な、端正な横顔。
私は小走りで近づき、上着を受け取ろうと手を伸ばした――のに、掴んだのは書類だった。
そこには大きく、『離婚協議書』の文字。
真っ白な紙が眩しくて、視界が滲んでいく。私はその場で固まった。
「……彼女が戻ってきた」
ジャレッドはネクタイを緩め、眉間に疲労を刻んだまま言う。
「条件があるなら言え」
指先がエプロンの布を強く掴み、爪が掌に食い込んだ。
――私、馬鹿みたい。私のものじゃない幸せを、まだ期待してた。
ジャレッドの言う「彼女」とは、妹のケイラ。甘やかされて育った小さなお姫さま。ジャレッドの幼なじみでもある。
5年前、ケイラはモントクレア家に嫁ぐのを嫌がり、「留学」を口実に海外へ逃げた。
二十年以上も外で育ち、ようやく認知された私が、その代わりとして商業結婚を引き受けた。……ただそれだけ。
本物が戻ったなら、代用品は身を引く。それが当然だ。
私は視線を落とし、そっと下腹に手を添えた。胸の奥が痛む。この子は……来るのが、遅すぎた。
ジャレッドは食卓に並んだ料理をしばらく見つめ、眉をひそめる。
「作りすぎだろ。今日は何か特別な日か?」
私は小さく笑って首を振った。
「気分が良かっただけ」
ジャレッドがじっと私を見て、どこか居心地悪そうに表情を歪める。
「……悪かった。水を差したな」
「立ってないで。冷めちゃう。先に食べてて。私、スープよそってくる」
話題を逸らし、私はキッチンへ向かった。
「スローン」
背中越しに呼ばれて、足を止める。でも振り返らなかった。
「この3年間、世話になった。……ありがとう」
平坦な声で続く。
「補償はする。安心しろ」
私は何も答えず、キッチンへ歩き続けた。
お玉の中で立ちのぼる湯気が揺れているのを見た瞬間、堪えきれず鼻の奥がつんと痛んだ。視界が滲む。
涙が、何の前触れもなくぽろりと落ちた。
慌てて拭い、深呼吸する。平然を装い、スープ皿を持ってダイニングへ戻った。
ジャレッドは席に着いていたが、箸をつけていない。
「……泣いたのか」
「食べよう」
私は彼の前にスープを置き、向かいに座った。
食事中、私たちは一言も交わさなかった。
ジャレッドはいつも通り、食べながらスマホを見ていた。ただ今日は、画面に向ける時間が異様に長い。誰かとやり取りしているのだろう。口元がふっと緩む瞬間が何度もあった。
――相手は、ケイラに決まってる。
食後、私が食器を片付け、ジャレッドは書斎へ行った。
私は何度も何度も皿を洗い続けた。指先が水でふやけて白くなるまで。
だって、もうすぐ。こんなことをする必要もなくなるから。
キッチンを片付け終えた頃には、もう9時を過ぎていた。
寝室に戻ると、ジャレッドはシャワーを終え、ベッドヘッドにもたれて書類を読んでいた。暖色の灯りが、彫りの深い横顔の輪郭を柔らかく縁取る。
私はかつて、この顔に惚れただけだと思っていた。
でも3年という時間は、人の心を変える。
ジャレッドの妻でいることに慣れて、いつしか――このまま年を重ねていく未来まで、勝手に夢見ていた。
夢が醒めるのは、あまりにも早かった。
「……私、客室で寝たほうがいい?」
離婚するのに、同じベッドはさすがに不自然だ。
「いい」
ジャレッドは淡々と言う。
「メイドのノラに別室を知られたら、母さんに告げ口される」
少し間を置き、付け足した。
「離婚のことは、当面誰にも知られたくない」
私は少し迷った末、寝間着に着替え、ベッドの端に横になる。間には一人分の距離。
この3年間の常態だ。同じ寝床、別々の夢。互いに胸の内を隠したまま。
ただ今夜は、その距離がやけに気まずい。
暗闇の中、彼の手が伸びてきて、私の腰をなぞった。
身体がびくりと硬直し、心臓が跳ね上がる。
「……しばらく触ってないな」
耳元に落ちる声は低く、磁力を帯びていた。熱い息が首筋にかかる。
「最後にするか?」
結婚して3年、ジャレッドが私を抱いた回数など片手で足りる。
それなのに今夜の彼は妙に昂っていた。腕の力が強い。キスもいつもより長い。まるで3年分の空白を、一度に埋めようとするみたいに。
彼の身体が私の下腹に触れかけた瞬間、私ははっとして、寝間着のボタンを外そうとする手を掴んだ。
「今日は……だめ」
動きが止まる。
「どうして?」
私は視線を逸らし、とっさに嘘をついた。
「今日、生理なの」
「嘘だろ」
彼はまた抱き寄せ、肩に細かなキスを落とす。
「夫婦だ。お前の周期くらい、俺が知らないわけない」
私は答えず、再び彼を押し退け、背を向けた。
暗闇で、彼の呼吸が荒くなる。長い沈黙のあと、冷たい笑い声が落ちた。
「……お前、本当は離婚したいんだろ」
氷みたいな声。
「俺が気づいてないと思ったか。あの絵を、ずっと持ってること」
心臓が、どくんと嫌な音を立てた。
その絵には、ある男性の後ろ姿が描かれている。それは私が18歳の時、その人に初めて出会った瞬間を描いたものだ。引き出しの奥に隠して、夜更けにだけ、たまに取り出して眺めた。
もうずいぶん長い間、見てもいないのに。ジャレッドはまだそれを気にしている。
「それ、あなたに関係ある?」
私は静かに返した。
しばしの沈黙のあと、背後がふっと空く。ジャレッドが布団を跳ね、ベッドを降りた。
バスルームの扉が――バタン、と乱暴に閉まる。直後にシャワーの音。
しばらくして水音が止み、彼は戻ってこない。隣の客室へ向かう足音だけが遠ざかった。
「スローン。お前に怒る資格はない。俺たちは同類だ」
それが、彼が去り際に残した最後の言葉だった。
私はゆっくり身を丸め、枕に顔を埋めた。
声を殺した涙が、枕カバーを濡らしていく。
その夜、私は一睡もできなかった。
