第3章 妊娠しているの?
スローン視点
二十分後、救命処置室の扉が再び開いた。
ライラが興奮した様子で私の手を掴む。
「スローン、すごすぎる! 患者さん、高齢で肝腎機能も悪くて、誰も薬を入れられなかったの。あなたのやり方を伝えたら、危険なところ抜けた!」
振り向くと、あの老婦人は呼吸が落ち着き、顔色も少しだけ戻っている。
VIP病室で経過観察になり、私が様子を見に行くと――老婦人がふいに手を伸ばしてきた。
一瞬ためらってから、その手を握る。
「ありがとう……いい子だね」
慈しむような目。声も、驚くほど柔らかい。
「ライラ先生から聞いたよ。助けてくれたのは、あなたなんだって」
「いえ。どうか、ゆっくり休んでください」
そう答えた、そのとき。
廊下の奥から、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてくる。
顔を上げると、青ざめたジャレッドが病床へ駆け寄ってきた。
「祖母さん! 大丈夫か!」
そして視線が私に移り、驚いたように目を見開く。
「……お前、どうしてここに?」
祖母さん――?
私は老婦人を見た。
まさか。ジャレッドが「田舎で隠居している」と言っていた祖母……?
以前ジャレッドから聞いたことがある。祖母は祖父――モントクレア大旦那様とともに一代で財を成し、モントクレア家の中でも別格の存在だ、と。
祖父が亡くなってからは会社に関わらず、田舎へ移って静かに暮らしている――そういう話だった。
モントクレア大奥様は私の手をぎゅっと握ったまま、ジャレッドに言う。
「ジャレッド、この子が私を助けてくれたの」
「祖母さん、彼女は……」
ジャレッドが一瞬言い淀み、それから短く言った。
「スローンだ」
「スローン……」
大奥様は名前を繰り返し、ぱっと顔を輝かせた。
「あなたが、私の孫嫁なの?」
「いいねえ。本当にいい」
花が咲くような笑顔。
「ジャレッドがこんな若くて綺麗なお嫁さんをもらったなんて、モントクレア家の福だよ」
ジャレッドの表情が固まり、唇が一直線になる。
彼は深く息を吸い、ベッド脇に膝をついた。
「祖母さん、目覚めたばかりなんだ。興奮しないでくれ。キアラがこの数日で帰国した。ついでに見舞いに来させる」
「見舞い? 私なんか見てどうする」
キアラの名を聞いた途端、モントクレア大奥様の顔色がすっと沈む。
「うちが苦しい時、真っ先に逃げた子だろ。そんな恩知らずとまだ関わってるのかい!」
吐き捨てるように言ってから、今度は私の手を取り直し、にこにこする。
「さあ、こっちへおいで。ばあちゃん、よく顔を見たい」
引っ張られるまま、私はベッド脇に座らされた。視線が思わずジャレッドへ向く。
「祖母さん、どうして急に街へ? 言ってくれれば迎えに――」
「迎えなんかいらないよ」
大奥様は鼻を鳴らす。
「どんな嫁をもらったのか見たくてね。でなきゃ面倒くさくて来ない」
「……配慮が足りなかった。すまない」
ジャレッドが低く謝ると、
「あなたの話は後だよ!」
大奥様はぴしゃりと睨みつけた。けれど次の瞬間には、私へふわりと笑いかける。
「孫嫁、医者なのかい? さっき先生たちが、薬の使い方が的確だって。主任まで褒めてたよ」
「医者ではありません。少し、学んだだけです」
「少し学んだだけでそれ? この子、謙虚だねえ」
私は笑って話題をずらした。
「祖母さん、今は落ち着いていますけど、今夜は入院して様子を見たほうがいいです。私、少し用があるので……明日また来ます」
大奥様は名残惜しそうにしながらも、しぶしぶ頷く。
「分かったよ。でもスローン、明日は早めに来ておくれ。たくさん話そう」
私は頷き、病室を出た。
出てすぐ、ジャレッドが追いかけてくる。
「スローン」
戸惑い混じりの声。
「俺、お前が医術を知ってるなんて知らなかった」
「……祖母さんの勘違いです。薬を入れたのは私じゃない」
淡々と言うと、ジャレッドの目の奥の疑いが少しだけ薄れる。
「だよな……」
それから私を観察するように見て、
「祖母さん、ああいうの気に入ったみたいだ。体調が戻ったばかりで刺激は避けたい」
胸の奥が沈む。
――離婚のことを、祖母に知られたくないのだ。
「安心して。祖母さんの前では離婚の話はしない。でも、予定通り……数日後に手続きに行く」
ジャレッドの眉が寄る。
「そんなに急いで離婚したいのか?」
「急いでるのは、あなた」
私は彼をまっすぐ見て、静かに言った。
「キアラが戻った。彼女にけじめをつけたいんでしょ?」
ジャレッドの表情が固まり、深い瞳の奥で複雑な感情が渦を巻く。
「……スローン。少なくとも、この三年、敵同士じゃなかった」
私は小さく頷いた。
「そうね。赤の他人が、取引で同じ屋根の下に三年住んだだけ。取引が終わったなら、各自の場所に戻る。それだけよ」
彼が何か言いかけた、そのとき。
「スローン! 薬、取り忘れてる!」
ライラが息を切らして駆けてきた。小さな袋を握っている。
ジャレッドを見ると一瞬固まり、それでもすぐ私に袋を押しつけた。
「ちゃんと飲んで。あと――もう一人じゃないんだから、無理しないで。身体、大事にして」
言いながら、ライラはジャレッドを露骨に胡散臭そうに見て吐き捨てる。
「ほんと意味わかんない。スローンがなんでこんな男と結婚したの」
ライラが去ったあと、ジャレッドの視線が薬袋に落ちた。
「……具合が悪いのか?」
「違う。普通の補給」
私は素早くバッグにしまい、立ち去ろうとする。
「待て」
ジャレッドがまた進路を塞いだ。目が、鋭くなる。
「普通の補給で葉酸? ……お前、まさか」
心臓が嫌なほど跳ねる。
「答えろ」
視線が、私の下腹へ落ちた。
「お前……妊娠してるのか?」
