第4章 あなたへの補償です

スローン視点

胃の奥がぎゅっとねじれる。指先が反射的に丸まり、バッグの取っ手をきつく握りしめた。

妊娠――?

もうすぐ私たちは離婚する。彼はケイラのところへ戻る。その彼にとって、私が妊娠しているかどうかなんて……重要なはずがない。

私は顔を上げ、探るようなジャレッドの視線を受け止めた。

「……私のこと、心配してるの?」

自分でも気づかないほど薄い皮肉が、声に混じった。

ジャレッドは眉間の皺をいっそう深くする。

「スローン。今は拗ねてる場合じゃない」

一歩詰めてきて、私のバッグへ手を伸ばす。

「薬を見せろ」

私はすぐさま後ろへ下がり、バッグを胸に抱え込んだ。

「私のプライバシーよ」

「まだ離婚してない。お前のことは俺のことだ」

強い口調に、背筋がひくりと固まる。

……離婚してない? だから何だというの。妊娠していたら、離婚しないとでも?

押し問答になったその瞬間、横から影が飛び込んできた。

「ちょっと! 人のもの奪おうとして、何その偉そうな態度!」

戻ってきたライラがジャレッドを強く押し退け、私を背に庇う。怒りを剥き出しにして睨みつけた。

彼女は私の手元――薬袋に目を落とすや、すぐに察したらしい。薬袋をひったくるように取って、ジャレッドの目の前に突きつける。

「ほら、見なさいよ。葉酸! スローンはずっと胃腸が弱いの。食べても吸収が悪いって言われて、栄養補助に葉酸を勧められてるだけ。何か問題?」

ジャレッドは薬袋を凝視し、それから私を見た。疑いが消えきったわけじゃない。でも勢いは明らかに削がれていた。

「……それだけ?」

「じゃあ何だと思ったの?」

ライラは呆れたように白い目を向ける。

「モントクレアさんさあ。結婚して3年も経つのに、奥さんの体調も知らないの? あ、そっか。頭の中はケイラ一色だもんね。スローンのことなんて気にしてる暇ないか」

その言葉は針みたいに的確で、容赦がない。

ジャレッドの顔色がみるみる悪くなる。しばらく黙ったあと、低く言った。

「……悪かった。俺が過敏になってた」

私は首を振り、これ以上絡む気にもなれなかった。

「祖母さん、まだ付き添いが要るでしょ。戻って」

言い終え、ライラの手を取って立ち去ろうとする。

「送る」

背後からジャレッドの声。

足が止まる。けれど振り返らない。

「いらない。自分で帰れる」

「乗れ」

彼はもう隣まで来ていて、路肩に停めた車のドアを開けていた。

ライラが何か言いかけたので、私はそっと彼女の手を握り返し、落ち着いてと合図する。

「気をつけてね」

ライラはそう言って、私が車に乗り込むのを見送った。心配してくれているのが痛いほど伝わる。

車内は、妙に息苦しい沈黙に包まれた。

ジャレッドは後部座席から、包みのいい箱をいくつか取り出した。

「お前に買った」

私の膝の上に置く。

「栄養剤だ。痩せすぎだろ。これからちゃんと食え」

覗き込むと、医療用グレードのサプリメントが几帳面に並んでいた。主張しないラベルなのに、見るだけで高いと分かる。

その瞬間、胸の奥がかすかに揺れる。

この3年、彼が私にこんなふうに気を配ったことなんてない。

でも――突然差し出された優しさは、冬の一瞬の陽だまりみたいなもの。すぐに翳って、凍りついたものを溶かしてはくれない。

「……ありがとう」

私は箱を脇へずらし、距離のある声で言った。

ジャレッドは私をちらりと見て、唇を動かしかけたが、結局何も言わずに車を出した。

車は静かに走り、屋敷の門前で止まる。

シートベルトを外そうとしたとき、ジャレッドが不意に身を乗り出してきた。

澄んだシダーの香りが一気に満ちる。温かな息が頬をかすめ、私は反射的に呼吸を止めた。身体がこわばる。

カチ、と小さな音。

シートベルトが外される。

指先がうっかり鎖骨に触れ、ぞくりと小さな震えが走った。

「これ」

彼は体を戻し、ベルベットの小箱を差し出す。高級ブランドの限定ロゴ。

「……何?」

「埋め合わせだ」

ジャレッドは箱を私の手に押し込む。

「これで何かが埋まるとは思ってない。でも、俺の気持ちだ」

――また、埋め合わせ。

彼が私に渡せるものは、金と物だけ。そう言われているみたいだった。

断ろうとしたのに、彼はもう車を降り、反対側へ回って私のドアを開けると、箱と補品をまとめて私の腕に押しつけた。

「入れ。外は冷える」

そう言って私をじっと見つめ、すぐ車に戻る。ほどなくエンジン音が遠ざかっていった。

私は荷物を抱えたまま門前に立ち尽くし、胸の内に言葉にならないものが渦を巻いた。

ドアを開けると、リビングの灯りがどっと流れ出る。

イザベルとケイラがソファで談笑していて、物音に揃ってこちらを見た。

「スローン、おかえり」

ケイラが笑顔で近づく。私の腕の中の箱を見て、目を丸くした。

「あっ、それ……チャルイの限定じゃない? 前にジャレッドにちょっと言ったことあるの。まさか買ってきてくれたんだ」

そう言いながら、彼女は当然のように私の腕から箱を取り上げ、ぱかりと開ける。けれど次の瞬間、唇を尖らせた。

「……この色かぁ。そりゃそうだよね。私、青って好きじゃないって言ったから、返品してって頼んだの。なのにスローンに回したんだ」

無邪気な口調。まるで何でもない出来事を話しているだけ。

でも、その言葉は刃だった。

胸に芽生えかけた薄い感動を一瞬で切り裂き、冷たい現実へ叩き落とす。

――遅すぎる埋め合わせさえ、彼女の選り分けた残り物。

心の最後のさざ波が、すっと凪いだ。

「いらないものなら、返すわ」

私はケイラの手から箱を取り返し、踵を返して階段へ向かう。

「待ちなさい」

イザベルの冷たい声が背中を刺した。彼女は私の前へ回り込み、刃みたいな目で睨みつける。

「スローン。警告しておくわ。離婚すると約束したなら、余計な真似はしないこと。ケイラは純粋だけど、私は誤魔化されない。モントクレア夫人の座にしがみつきながら、裏でジャレッドを誘惑して、両方手に入れようなんて――そういう浅ましい真似は許さない」

私は彼女を見返し、滑稽さに笑いたくなった。

「私が、そんなに卑しい人間に見えるの?」

「自分がどういう人間かくらい、自分で分かってるでしょう」

イザベルの声には侮蔑が滲んでいた。

「ウィンズロー家が引き上げてあげなかったら、あなたは今も田舎よ。感謝ってものを覚えなさい」

冷笑が喉までせり上がる。今すぐにでも顔を叩きつけてやりたいほど。

――そうね。感謝しないと。

田舎から連れ戻したのは、可愛い娘の代わりに政略結婚させるためだったくせに。

3年も家のために働いた私を、用が済んだ途端に捨てるくせに。

私は深く息を吸い、煮えたぎるものを押し込めた。そして静かに言う。

「安心して。不相応なものにしがみつくほど、私は浅ましくない」

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