第1章
「お母さんの言う通りだった。一人でこんな辺鄙な場所に来るんじゃなかった」
車の窓の外では、ちらついていた粉雪がいつの間にか牡丹雪に変わっていた。カーナビはとうに沈黙し、スマートフォンの電波も途切れ途切れだ。私はハンドルを握りしめ、前方の暗い山道を見極めようと目を凝らすが、吹雪で視界は急速に白く閉ざされていく。
「あの天気予報、小雪だって言ってたじゃない……。ナビも当てにならないし……」
独りごちる声は、自分でも気づかぬうちに震えていた。不安がじわじわと胸の内に広がっていく。
T京大学大学院で民俗学を専攻する私は、フィールドワークのためにこの白峰村を目指していた。指導教員曰く、この村には古くからの祭祀が今なお色濃く残っており、私の修士論文にとってまたとない研究対象になるだろう、とのことだった。だが、この状況では村に辿り着くことすら覚束ない。
不意に車体がガクンと大きく揺れたかと思うと、ぴたりと動かなくなった。アクセルを踏み込んでも、タイヤが雪の上で虚しく空転し、甲高い音を立てるだけだ。最悪だ。スタックしてしまった。
エンジンを切り、震える手でスマホを手に取るが――アンテナは一本も立っていない。外の風雪はますます勢いを増し、まるで獣の咆哮のように唸りを上げている。急速に冷えていく車内に、これ以上留まるのは危険だと本能が告げていた。
ダウンジャケットを羽織り、ニット帽を目深にかぶって、重いドアを押し開ける。外の寒気が一瞬で骨の髄まで突き刺さり、叩きつける雪が顔にひりひりと痛い。私は朧げな記憶だけを頼りに、村があるはずの方角へと足を踏み出した。
一歩一歩が深く、雪はすでに膝上まで積もっている。体力は急速に奪われ、呼吸は荒く、両足が鉛のように重い。どれくらい歩いただろうか。目の前がちかちかし始め、意識が遠のいていくのを感じた。
もう、だめだ。そう思った、その時。
吹雪の向こうから、微かに人の声が聞こえた。
「おい、あそこに誰かいるぞ!」
「女だ!早くこっちへ!」
返事をしようとしたが、喉が凍りついたように声が出ない。視界が真っ暗に染まり、私はそのまま雪の中に意識を手放した。
まず鼻腔をくすぐったのは、古びた木の匂いと、線香の香りだった。
ゆっくりと目を開けると、自分が簡素な木製の寝台に横たえられ、分厚い布団をかけられていることに気づいた。部屋は薄暗く、揺らめく数本の蝋燭だけが灯りとなり、壁には見たこともない神仏の絵がいくつも掛けられている。
ここは……神社の社務所か何かだろうか。
身を起こそうとして、自分が着ているものがいつもの服ではなく、見慣れない浴衣のようなものであることに気づき、心臓がどきりと跳ねた。
「私の荷物は?スマホはどこに?」
慌ててあたりを見回すが、私のバックパックも、スマートフォンも、身分を証明するものは何一つ見当たらない。
その時、軋む床を踏む音がして、黒い和服をまとった老人が部屋に入ってきた。年は六十代くらいだろうか。白髪交じりの頭で、顔には穏やかな笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥に、なぜか得体の知れない光が宿っているように見えた。
「お嬢さん、お目覚めですな」彼の声は、ひどく落ち着いていた。「わしは白峰村の村長、大山源次郎と申します」
「こんにちは、名原雪奈です」私は努めて平静を装った。「助けていただき、ありがとうございます。でも、私の荷物を探さないと。それに、外に連絡を……」
「お嬢さん、そう焦らんでも」源次郎は私の言葉を遮った。「あなたの物は、わしらがきちんと預かっております。外はひどい吹雪で山道は完全に閉ざされておる。今出ていくのは、死にに行くようなものですぞ」
先ほどの雪中の出来事を思い出す。確かに、この人たちに助けられなければ、私は本当に凍え死んでいたかもしれない。しかし、心のざわめきは一向に収まらなかった。
「大学に連絡しないと。指導教官が私の報告を待っているんです」
「この山ん中は、もとより電波の入りが悪くてな。雪が止んでからの話です」源次郎は一歩近づき、その眼差しを深めた。「今はゆっくり休むことです。山の神様が、あなた様を大難から救ってくださったのですよ」
山の神様。その言葉に、胸が妙な音を立てた。民俗学を学ぶ者として、そうした信仰には馴染みがある。だが、彼の口ぶりには、何かそれだけではない響きがあった。
「村長さん、私の研究テーマは……」
「存じておりますとも」源次郎の笑みが、さらに深くなった。「この村の民俗を調べに来られたのでしょう?これはまさしく……天の配剤ですな」
その言葉に、全身に粟立った。天の配剤とは、どういう意味だ?
その時、戸の外からまた複数の足音が聞こえ、古風な着物を着た老婆たちが数人、部屋に入ってきた。皆、七、八十は超えているように見える。顔には慈愛に満ちた笑みを浮かべているが、その裏に何か別の感情が隠されているように感じられた。
「春子、雪子、ちょうどいいところへ」源次郎が言った。「雪奈さんが目を覚まされた」
一番前にいた老婆――春子と呼ばれた老婆が、私の寝台の脇に腰を下ろし、品定めするような奇妙な眼差しで私をじっと見つめた。
「お嬢さん、知っておるかい?」彼女の声はひどく静かで、まるで秘密を打ち明けるかのようだった。「わしらの白峰村はのう、三百年もの間、大災に見舞われるたびに、山の神様がよそから女子を一人、お導きになるんじゃ」
「山の神様が導く?」意味が分からなかった。「私はただ、民俗学の研究で……」
雪子と呼ばれたもう一人の老婆が頷く。「そうじゃ、わしらの民俗を研究するためじゃ。ほれ、これが天の配剤でなくてなんじゃろう。山の神様が、あんたを一番良い時にここへお遣わしになったんじゃよ」
彼女たちの話は聞けば聞くほどに混乱するばかりだ。山の神がなんだ、天の配剤がなんだ。私はただのしがない大学院生だというのに。
「山の神様が花嫁をお選びになるのに、間違いは一度たりともなかった」春子はそう続け、その瞳に異様な光を宿した。「山の神の花嫁は、豊作と安寧をもたらしてくださる。じゃが、山の神様の御心に逆らう者は……歴史上、誰一人として良い末路を辿った者はおらん」
花嫁?心臓が喉から飛び出しそうになった。
「待ってください、何を言っているんですか?私にはさっぱり……」
「すぐに分かりますとも」背後から源次郎の声がした。「今宵が、最高の好機なのです」
立ち上がろうとしたが、急に頭がくらくらし、体に力が入らない。さっき、喉が渇いているだろうと老婆たちが飲ませてくれた白湯に……。
「お茶に、何を……?」必死に意識を保とうとする。
「ただの薬草ですよ。気を楽にするための」春子の声が遠のいていく。「怖がることはありません。これが、あなたの宿命なのですから」
視界が滲み、意識が明滅する。微睡みの中、誰かが私に服を着せ替えているのを感じた。白い……婚礼衣装?
「いや……やめて……こんなの望んでない……」
もがこうとするが、体は全く言うことを聞かない。
再びわずかに意識がはっきりした時、自分が白無垢を着せられ、神社の本殿に立たされていることに気づいた。村中の人間が集まっているようだ。揺れる燭台の火が、皆の顔を不気味に照らし出している。
私の向かいには、二十代前半に見える若い男が、紋付袴姿で立っていた。しかし、その眼差しはどこか虚ろで、ずっと私に向かってにへらと笑いかけている。
「よめさ……よめさ……太郎が、まもってやる……」
彼の声は、少し呂律が回っていなかった。
私の心は、完全に絶望の底へと沈んだ。この人は、知的障害を抱えている。
「雪奈、これは山の神の御心であり、そなたの宿命だ」源次郎が前方に立ち、威厳に満ちた声で告げた。「太郎は知恵こそ足りぬが、心根の優しい男だ。そなたを大事にするであろう」
「こんなこと許されない……」大声で叫びたかったが、声は自分でも聞き取れないほどに弱々しい。「これは犯罪です……私を家に帰して……」
源次郎の表情が、氷のように冷たくなった。「犯罪?この山の中では、山の神こそが法なのだ」
神社全体に、突如として読経のような斉唱が響き渡った。
「山の神の御加護あれ、花嫁の降臨ぞ、白峰は永く栄え、子孫は満ち足らん!」
その声は古びた社殿に反響し、薄暗い燭光と不気味な神像と相まって、全ての光景が悪夢のように非現実的だった。
抗いたい、逃げ出したい。しかし薬のせいで立つことすらままならない。目の前の全てがぐるぐると回り、村人たちの顔が燭光の中で歪み、まるで悪鬼のように獰猛な笑みを浮かべている。
「山の神の御加護あれ、花嫁の降臨ぞ、白峰は永く栄え、子孫は満ち足らん!」
呪文のような声はますます大きく、ますます揃ってゆき、私の魂ごと飲み込もうとしているかのようだ。
最後の理性が、終わった、と告げていた。私は本当に、終わってしまったのだ。
完全に意識を失う直前、源次郎がこう言うのを、確かに聞いた。
「儀は成りた。これより後、雪奈は我ら白峰村の者となる」
そして、全てが闇に閉ざされた。
外では吹雪がなおも荒れ狂い、村全体が、不気味な祝祭の空気に包まれていた。
誰も知らない。かつて自由だった一つの魂が、こうして永遠に、この世から隔絶された山村に囚われてしまったことを。








