第2章
割れるような頭痛。
ゆっくりと瞼を押し上げると、見知らぬ天井が目に映った。部屋は狭く、まるで何十年も前の時代に遡ったかのような、古びた和室。木製の箪笥、黄ばんだ畳、壁には色褪せた花鳥画が掛けられている。
ここは、どこだ?
思考が回り始めると同時に、昨夜の記憶が洪水のように押し寄せてきた。あの狂気の神社、無理やり執り行われた婚礼の儀、そして――太郎という名の、あの男。心臓が警鐘のように激しく脈を打ち始める。
がばりと身を起こすと、自分が簡素な寝間着に着替えさせられていることに気づいた。あの忌まわしい白無垢ではない。安堵しかけたのも束の間、隣から穏やかな寝息が聞こえ、反射的にそちらに顔を向けてしまった。
「夢じゃ……ない」
手で口を覆い、喉から迸りそうな絶叫を必死に飲み込む。あの狂人どもは、本気だったのだ。
「……よめさ……いかないで……たろうが、まもってやる……」
太郎が寝返りを打ち、子供のような寝言を呟いた。その言葉が引き金となり、吐き気と、腹の底から燃え上がるような怒りがこみ上げてきた。
「守るですって?ふざけないで……!」
私は抜き足差し足で布団から抜け出し、部屋の様子を窺う。扉も窓も古く、鍵がかかっている様子はない。窓の外には分厚い雪が積もっているが、その向こうに山林の輪郭が見える。ここは神社のようではない。村の民家の一室だろう。
太郎が再び深い眠りに落ちたのを確認し、私は行動を開始した。箪笥から厚手の上着を、台所からは干し芋をいくつか。そして、引き出しの奥に錆びついた小刀を見つけ、それを懐に忍ばせた。
必ず、ここから出てやる。そして、必ず、あいつらに罪を償わせてやる!
深夜。村全体がしんと静まり返っていた。
太郎の寝息が深く、規則的になったのを見計らい、私は慎重に窓の木枠を滑らせた。凍てつくような空気が一気に吹き込み肌を刺したが、もはや躊躇はなかった。
窓枠から雪の上へ飛び降りると、柔らかな雪がふくらはぎまで沈み込む。一歩一歩が重く、体力を奪われる。だが、足を止めるわけにはいかない。夜が明ける前に、この鬼の住処から離れなければ。
「道はあるはず……山を下りる道が、きっと……」
暗闇の中、勘だけを頼りに、村の外と思われる方角へひたすら歩を進める。雪は依然として降り続き、視界は最悪だ。足の感覚はとうに麻痺し、体は芯から震えている。それでも、恐怖と怒りが私を前へと駆り立てた。
どれくらい歩いただろうか。前方の闇の中に、ぼんやりと湯気が立ち上る一帯が見えた。近づいてみると、それは天然の温泉だった。地熱で周囲の雪が溶け、大小のぬかるみや熱水の溜まった水たまりが点在している。危険な場所だ。
注意深く温泉の縁を回り込もうとした、その時だった。ぬかるんだ地面に足を取られ、体勢を崩した。
「きゃっ!」
熱湯だまりに落ちそうになり、咄嗟に傍らの岩を掴んで事なきを得る。だが、自分の上げた短い悲鳴が、静寂な雪の夜に吸い込まれずに響き渡ってしまったことに、血の気が引いた。
案の定、遠くから犬の吠える声が聞こえ、それに呼応するように男の怒声が続いた。
「何の音だ!?まさか花嫁様か!」
あの声は――田中。村の「秩序」とやらを担っていた男だ。
「見つかる……!見つかるわけにはいかない……!」
必死に走るが、深い雪に足を取られて思うように進めない。背後で犬の鳴き声が急速に近づいてくる。
「行け!追え!」
田中の号令が響く。振り返ると、数匹の大型犬が雪を蹴立ててこちらへ突進してくるのが見えた。その後ろからは、懐中電灯の光がいくつも揺れている。
呼吸は切れ、心臓は張り裂けそうだ。鉛を流し込まれたように重い両足が、ついに限界を迎え、私は雪の中に前のめりに倒れ込んだ。
「まだ逃げる気か」冷笑を浮かべた田中が、私の前に仁王立ちになった。「山の神の花嫁様は逃げられん。それが、お前の運命だ」
もがいて起き上がろうとする私を、数人の村人が獣のように取り押さえる。
「離して!この人殺し!警察を呼んでやる!」
「警察だと?」田中は腹を抱えて笑った。「この山の中では、俺たちが法なんだよ!」
私の最初の逃亡は、こうして呆気なく失敗に終わった。
だが、彼らは私を太郎の家には連れ戻さなかった。引きずられるようにして連れて行かれたのは、あの忌まわしい神社だった。
「地下へ連れて行け」
本殿の奥から、源次郎の冷たい声が響いた。
地下?その言葉に、心臓が凍りつく。
彼らは私を本殿の裏手にある隠し戸から、石の階段へと突き落とすように下ろしていく。空気は湿っぽく、黴臭い。壁の松明が、不気味な影を長く揺らしていた。
地下の密室にたどり着いた時、私は目の前の光景に息を呑んだ。
部屋の四方に、何体もの骸骨が打ち捨てられるように置かれていた。そのどれもが、朽ち果てた白無垢をまとっている。あるものは崩れ落ち、あるものは壁にもたれかかったまま、虚ろな眼窩をこちらに向けていた。壁にはびっしりと呪符のようなものが貼られ、床にはおびただしい数の暗褐色の染みがこびりついている。
「この人たちは……」震える声で尋ねるしかなかった。「私より、前の……」
源次郎が闇の中からぬっと姿を現した。その顔には、もはや慈愛の欠片もない。
「皆、山の神の御心に背いた者たちだ。そして、我らの手で『浄化』された」
「あなたたち……悪魔よ!人殺し!」
「人殺しではない」源次郎は静かに首を振った。「これは救済だ。我らは彼女たちの穢れた魂を救い、この地に永遠の安息を与えてやったのだ」
彼は他の者たちに目配せし、私を部屋の中央にある石の祭壇に縛り付けさせた。
それからの数時間は、地獄そのものだった。
彼らは私の体に氷水を浴びせかけ、意味の分からない経文を唱えさせ、様々な方法で私を辱めた。私は冷たい石の上で震え、歯の根が合わなかった。
「後悔……させてやる……私は、絶対に屈しない……」か細い声で、それだけを繰り返した。
「誰もが最初はそう言う」源次郎は私を冷ややかに見下ろした。「だが最後には、皆、山の神の偉大なる御心を理解するのだ」
意識が朦朧とし始めた、その時。ふと、一つの策が閃いた。私は腹を押さえ、苦痛に顔を歪めて呻いた。
「お腹が……!赤ちゃんが……!私のお腹の子が……もう……!」
その場にいた老婆たちが、途端にざわめき始めた。
「村長、もしや子を失くされたのでは……。山の神は、血の穢れをお好みにならん……」春子と呼ばれた老婆が、狼狽したように言った。
源次郎の眉が、わずかに動いた。彼は一瞬ためらった後、吐き捨てるように言った。
「……まずは休ませろ。体が清まってから、改めて躾ける」
私は心の中で、安堵の息を漏らした。この咄嗟の嘘が、私に貴重な時間を与えてくれたのだ。
太郎の家へ送り返される道すがら、私は村人一人一人の顔を、その声色を、脳裏に焼き付けた。地下で見た、名もなき女性たちの無念が、私の魂を内側から突き動かしていた。
生きてやる。絶対に生きて、お前たち全員に、代償を払わせてやる。
今回の逃亡は失敗に終わった。しかし、私の思考は完全に変質していた。もはや、ただ逃げることだけを考えているのではない。
これは、復讐だ。
私をこの地獄に突き落とした者たち一人一人に、相応の罰を受けさせる。
太郎の隣で横になり、彼の規則正しい寝息を聞きながら、私は暗闇の中で静かに誓った。
私は被害者ではない。私は、復讐者だ。








