第6章 妊婦への堕胎強要は違法
病室に死のような静寂が二、三秒続いた後、パリンという音が響いた。
速水父は手元のコップを床に叩きつけ、勢いよく立ち上がった。
「貴様、もう一度言ってみろ!」
速水ミオは顔を上げ、布団越しに右手で下腹部をそっと押さえた。
目尻は赤く染まり、恐怖で頬が微かに震えている。
それでも彼女は、揺るぎない眼差しで速水父を見据えた。
「この子を、産みます」
パァン——
強烈な平手打ちが速水ミオの顔を横へと弾き飛ばし、頬に鮮やかな五指の跡が浮かび上がった。
「恥知らずが!」
速水父は怒りで歯噛みし、再び手を振り上げた。
「打てばいいわ!」
彼の手が振り下ろされる前に、速水ミオは自ら顔を突き出した。
シーツを握りしめる指の関節は白く浮き上がり、掌は冷や汗で濡れている。
「何とでも言えばいい」
速水ミオの睫毛が揺れ、声も無意識に震えていた。
「私はこの子を産みます。この子は恐らく、この世で唯一の私の家族になるのだから」
『唯一』という言葉がナイフのように、速水夫婦の耳に突き刺さった。
速水父の振り上げた手が、空中で微かに震える。
「何だと? 俺とお前の母親はもう死んだとでも言うつもりか?」
速水ミオは唇の端を吊り上げ、笑みを浮かべた。だが、その瞳は笑っていなかった。
「あなたたちの目には速水ナナしか映っていないじゃない。いつ私を見てくれたの?」
「こんな時までナナを巻き込む気か」
「まさかナナがお前を間男と寝かせたとでも? ナナがお前に恥知らずな真似をさせ、そのどこの馬の骨とも知れない子を身籠らせたとでも言うのか?」
言われてみて、速水ミオはハッとした。
そういえば、あの出前を持ってきたのは速水ナナだった。
だが今さら何を言っても、速水夫婦は信じないだろう。むしろ自分の立場を悪くするだけだ。
速水ミオは伏し目がちに視線を落とした。
「とにかく、何を言われても私はこの子を産みます」
「貴様……」
速水父がさらに手を出そうとしたその時、病室のドアが開いた。
年配の女性医師が二枚の合意書を持って入ってきた。室内の惨状を目にし、冷ややかな声を放つ。
「ここは病院です。これ以上騒ぐなら警察を呼びますよ」
速水母が慌てて速水父の袖を引き、首を横に振った。
病院で騒ぎを起こして警察沙汰になれば、メディアが大々的に書き立てるだろう。
そうなれば、速水家の面目は丸潰れだ。
女性医師はテーブルの上に二枚の合意書を置いた。一枚は中絶手術同意書、もう一枚は妊娠継続に関する合意書だ。
彼女は速水夫婦を一瞥すると、速水ミオに向き直った。
「あなたの身体状態で今すぐ中絶手術を行えば、命に関わる危険があります」
「産むか堕ろすか、選ぶ権利はあなたにあります」
病院は生と死を見届ける場所だ。医師はただ淡々と結果を告げる。
速水ミオが合意書に手を伸ばすより早く、速水父がそれを奪い取り、背後に隠した。
「先生、この子は要りません。すぐに手術の手配を」
速水ミオは不可解に思った。ビジネス界を渡り歩いてきた父の理解力に問題でもあるのだろうか? 先ほどの言葉が聞こえなかったのか?
医師は速水ミオが口を開く前に、氷のような声で遮った。
「そのような決定に関しては、当院は患者本人の意思を尊重します」
速水父は怒りで歯ぎしりし、額には青筋が浮かんでいる。
「俺は父親だ。俺が決める!」
彼はリスク同意書を医師の目の前に突きつけた。
「やれ、今すぐやるんだ。何かあっても責任は俺が取る」
女性医師は彼を無視し、速水ミオに問いかけた。
「これはあなたの身体です。どうしたいのですか?」
彼女の穏やかな瞳は、まるで光を放っているようだった。速水ミオの胸がドクンと高鳴る。
最後に誰かが自分の意見を聞いてくれたのはいつだったか、もう思い出せない。
速水家において、彼女は取るに足らない端役だった。
速水父と速水母は、彼女が速水家にどんな利益をもたらすかしか見ておらず、彼女自身がどう考えているかなど一度も尋ねたことがなかった。
「産みます」
速水ミオの声は低かったが、確固たる響きがあった。
「私はこの子を守りたい」
「速水ミオ、お前……」
医師は速水父の怒号を遮った。
「分かりました」
彼女は看護師に命じてもう一部の合意書を持ってこさせ、速水ミオに渡した。そして自らの体で壁を作り、速水ミオがサインするのを見届けてから、書類を胸に抱いて出口へと向かった。
激昂した速水父は、逆に奪い取ることもできず、ただ憎々しげに速水ミオを睨みつけた。胸は激しく上下し、荒い息遣いは壊れたふいごのような音を立てている。
医師と看護師が去った後、速水父は握りしめていた合意書を天井に向かってばら撒いた。
舞い散る紙片が速水ミオの顔に落ち、鋭い縁が皮膚を切り裂く。痛みで瞳が潤んだ。
涙の膜越しに、速水父の形相が歪んで見えた。
「速水ミオ、いい度胸だ! 実に見上げたものだ!」
速水家において、速水父は絶対的な存在であり、誰も彼に逆らうことなどできなかった。
お茶を淹れるような些細なことでさえ、彼の意のままだった。
まさか速水ミオが今日、これほどまでに反旗を翻すとは。
彼の権威はかつてない挑戦を受けていた。
「そんなに偉くなったのなら、なぜまだ速水家に居座っている?」
速水父は冷笑した。
「いっそ速水家を出て、その間男と新しい所帯でも持てばいいだろう」
「枕営業でのし上がるようなふしだらな女を、どこの男が娶るか見ものだがな!」
覚悟はしていた。両親が自分を愛していないことなど知っていた。
だが、実の父親の口からこれほど残酷な言葉を聞かされると、速水ミオは息ができなくなるほど苦しかった。
心臓をナイフで切り裂かれ、そこへ冷たい風が吹き込んでくるようだ。
「あなた」
速水母が彼を引き止め、首を横に振った。
「あの子はまだ子供よ。過ちを犯したなら教育すればいいだけ。そんな言い方はないわ」
彼女は体で速水ミオを庇い、しきりに速水父へ目配せをした。
東雲家との婚約が控えているのだ。
もし速水ミオが嫁がないとなれば、その役目は速水ナナに回ってくる。
この二ヶ月の軟禁生活がなければ、速水ミオは母が自分のために言ってくれているのだと信じたかもしれない。
だが今は……。
彼女は鼻で笑った。
「どうせ私が速水家に残っても、政略結婚の道具にするだけでしょ」
「速水社長、本当に私を追い出してくれたらよかったのに。そうすればあと二十年は長生きできたかもしれないわ」
「き、貴様……」
速水父は怒りのあまり言葉に詰まった。
速水ミオはその様子がおかしくてたまらなかった。
「残念ね。可愛い愛娘を東雲家に嫁がせたくないから、どんなに私が憎くても、速水家に置いておくしかないんでしょう?」
「そうですよね、お母さん」
速水母の背中が強張り、速水父の腕に置いていた手がゆっくりと滑り落ちた。
彼女は恐る恐る振り返り、速水ミオの嘲るような笑みと視線を合わせた。
「お母さん、お父さんが速水ナナを贔屓するのはまだ我慢できる。でも、私と速水ナナは同じあなたから生まれた娘なのに、どうしてあなたまでそんなに不公平なの? どうして全ての愛情をあの子に注ぐの?」
速水ミオは体の横で拳を握りしめ、一言一言問い詰めた。
「あの子が欲しがるものは何でも全力で与える。あの子が東雲家との婚約を嫌がれば、私を犠牲にしてでもあの子の願いを叶える! 一体なぜ? あの時、階段から落ちたのが私じゃなかったから?」
