紹介
「お母さんと二人きりがいい。お父さんとは一緒にいたくない」
拓海はこの提案を即座に受け入れ、その日のうちに航空券を手配した。
一週間の準備期間、彼は一度も反対しなかった。
私は何も疑わなかった。娘に特別な経験をさせてあげたいのだと思っていた。
あの電話がかかってくるまでは――
チャプター 1
普段は素直な娘が、突然海外へ行こうと頑なに言い張った。
父親はいらない。私と二人きりで過ごしたいのだと言う。
夫の坂上拓海はその提案を快諾し、その日のうちに航空券を手配してくれた。
出発までの一週間、彼は一切の異議を唱えなかった。
当時の私は、娘に特別な成長の機会を与えたいという彼の親心だと信じて疑わなかったのだ。
——あの電話がかかってくるまでは。
私は海外のホテルから、夫に旅の報告を済ませたところだった。
通話は終わったと思い込み、スマホを置こうとしたその時——受話口から、彼と愛人の会話が漏れ聞こえてきたのだ。
回線はまだ、繋がっていた。
「ねえ、奥さんが予定より早く帰ってくることはないの?」
「大丈夫だ。佑実が上手くやってくれる。あの子にはコンサート仕様のグランドピアノを買ってやると約束してあるからな」
「夫婦のベッドでするのって、すごく興奮する。私のアパートなんかよりずっといいわ」
拓海がくすりと笑う。その声には、私に向けられたことのない甘い響きが含まれていた。
スマホを握りしめたまま、私は全身が凍りつくような感覚に襲われた。
間を置かず、女の声が再び鼓膜を打つ。
「咲良さんの場所に寝転がって、彼女が真実を知った時の顔を想像するのが好きなの」
わずかな沈黙の後、拓海の低い笑い声が響く。
愛人の挑発に、彼も乗っかったようだ。
「全くいじらしい小悪魔だ。だが、佑実がいい仕事をしてくれたよ。いつも上手く咲良を連れ出してくれる」
吐き気が込み上げてくる。
女の声が続いた。
「そんなにバレるのが怖いの? もし知られたら、離婚するのに好都合じゃない!」
その言葉に、彼は一瞬黙り込み、やがて真剣な口調で告げた。
「最初にも言っただろう——俺は離婚しない。咲良は俺の妻で、一番大切な存在だ。俺の帰るべき場所なんだ。だが、君は……」
言い淀む彼の声に、聞いたことのない熱が帯びる。
「君は、俺に情熱と征服の快感を思い出させてくれる」
直後、電話の向こうから卑猥な音が響いた。
誰も知らない——。
ホテルの部屋で、私は死人のように青ざめていた。
拓海が私たちの結婚を裏切るなんて、想像すらしていなかったのだ。
私たちはお互いに初恋の相手だった。
拓海とは高校からの付き合いだ。最初は彼の目立ちたがりな性格が鼻についたが、次第に惹かれていった。
彼はいつも私の気を引こうと必死だった。
私は彼を孔雀みたいだと言い、彼は肩をすくめて、君は図書室の地味な本の虫だと笑った。
どんなに揶揄されても、そこには悪意など微塵もなかった。
その後——。
お調子者の拓海は、私に嫌がらせをする不良たちを追い払ってくれた。
試験に落ちた時は、ずっとそばで慰めてくれた。
いつしか彼を鬱陶しいとは思わなくなっていた。
それどころか、淡い恋心が芽生え始めていたのだ。
若き日の恋は純粋だ。自覚した瞬間、想いは奔流となる。
幸いなことに、それは片思いではなかった。
卒業式の夜のことだ。
学年一のマドンナ、知世が拓海に近づいてきた。
「ねえ拓海、私たちってお似合いだと思わない?」
完璧な笑顔と抜群のスタイル。男子なら誰もが憧れる存在だ。
けれど、拓海は首を横に振った。
大勢の人の前で、彼は踵を返して私の方へと歩いてきた。
心臓が早鐘を打つ。
そうして私たちは、皆の前で公認のカップルとなった。
大学二年の時だ。
アパートの下に現れた拓海の目は真っ赤に充血していた。
父親の不倫が発覚し、母親が荷物をまとめて家を出て行ったのだと言う。
拓海は私の腕の中で泣き崩れた。
「浮気する奴なんて最低だ。俺は親父みたいには絶対にならない」
私の肩が彼の涙で濡れる。
「咲良、約束する。母さんが味わったような思いは、君には絶対にさせない」
私は彼の髪を優しく撫で、その痛みに寄り添った。
「信じてるわ、拓海。私たちは違うもの」
彼はさらに強く私を抱きしめた。
あの時、私たちは本当に特別だと信じていたのだ。
大学卒業後すぐに婚約。お互いの両親も祝福してくれ、早々に挙式した。
結婚一年後には佑実が生まれた。
私たちの愛の結晶だ。
出産の時、私は大量出血を起こし、拓海は分娩室の外で倒れそうになっていたらしい。
目を覚ますと、彼は私の手を握りしめ、必死の形相で言った——
子供は一人で十分だ、もう二度と君を失うような恐怖は味わいたくない、と。
それから——。
私たち家族三人は穏やかで幸せな日々を送っていた。
結婚三年目。
拓海の会社が急成長し、彼は仕事に忙殺されるようになった。
「咲良、君の支えが必要なんだ」
彼は真摯な瞳で私に訴えた。
「君は家を守ってくれ。俺が外で未来を築く。完璧な役割分担だと思わないか?」
「もう働かなくていい。俺が最高に贅沢な暮らしをさせてやるから」
私のデザインポートフォリオが段ボール箱にしまわれていくのを、ただ見つめていた。
数々の受賞歴、図面、建築模型。
かつての私の誇りたち。
拓海は優しくキスをして、一生裏切らない、私だけを愛し続けると誓った。
不安はあったけれど、二人の未来を信じて頷いた。
友人たちは皆、私を羨んだ。
「咲良は幸せ者ね。拓海ったら本当に過保護なんだから」
「専業主婦なんて最高じゃない。悩み事なんて何もないでしょ?」
「あんな成功した旦那様がいるんだもの、家庭生活を満喫しなさいよ」
私は微笑んで頷くしかなかった。
働く主婦から専業主婦へ。
私の世界はどんどん狭くなり、逆に拓海の世界は広がっていく一方だった。
「主婦」という言葉を卑下したことはない。
夫婦喧嘩もほとんどなかった。
拓海は完璧な夫だった。記念日は私よりも詳しく覚えていて、いつもサプライズとプレゼントを用意してくれた。
精神的な支えとしても完璧で——私に寂しい思いなど一度もさせなかった。
非の打ち所がないと思っていた。
……今になって、ようやく気づいた。
拓海は、私の中にかつてあった挑戦心や情熱を求めていたのだ。
けれど、家庭に入った私からはそれを見つけられず、外に刺激を求めて裏切った。
若き日の美しい誓いが、今も耳の奥で虚しく響いている。
真実の愛だと信じていたものには、明確な賞味期限があったらしい。全てが変わってしまった。
心臓を見えない手で鷲掴みにされているようだ。
痛い。息ができないほどに痛い。
私は口元を強く押さえ、嗚咽を漏らすまいと必死に耐えた。どれくらいそうしていただろう。不意にスマホの画面が明るくなった。
高木さんからのメッセージだ。
「咲良さん、君のためにパートナーのポストを用意しておいた。三年間だけでいい。その後は君自身の設計事務所を立ち上げればいい。家庭第一なのは知っているが、君の建築の才能を埋もれさせるべきじゃない。もう一度、キャリアのために戦ってみる気はないか?」
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