さようなら、完璧な奥さん

さようなら、完璧な奥さん

渡り雨 · 完結 · 18.7k 文字

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紹介

かつて、結婚は私にとって救いだと信じていた。

私は億万長者の跡継ぎという身分を隠し、エプロンを締め、完璧な主婦を演じてきた。この三年間、私は宝石を担保に彼の苦境を救い、夜を徹して事業計画書を練り上げた。しかし、その見返りは、彼が愛人を堂々と家に連れ込むことだった。

その女は私の限定物のカシミアセーターを着て、私のボーンチャイナのカップを叩き割り、姑は私を「子を産めない役立たず」と罵った。そして彼は、私を「飽き飽きした貧乏人」だと言い放った。

たった五万で、私の全ての献身を買い叩こうとしたのだ。

妊娠が転機になるかと思った矢先、私は階段から突き落とされ、血が止まらなくなった。

流産で横たわる病室のベッドで、彼は私に離婚協議書へのサインを強要し、永遠に消えろと脅した。

高級レストランの個室では、私に犬のように這わせ、見知らぬ男に押し付けようとした。

しかし、彼は知らなかったのだ。私が隠していたのは、身分だけではない。その牙もだということを。

チャプター 1

 夜の八時。私はダイニングテーブルに突っ伏したまま、胃の底からこみ上げてくる吐き気を必死に堪えていた。

 バンッ、と玄関のドアが乱暴に開かれる音がした。顔を上げると、夫の利典が大股で入ってくるのが見える。その腕には、見知らぬ女がべったりと絡みついていた。

 女は、私のカシミヤのセーターを身に纏っている。あのオフホワイトの、去年利典がパリで買ってくれた限定モデルだ。「君が着ると、まるで地上に降りた女神のようだ」と、彼はそう言っていたのに。

 今、それは別の女の体を包んでいる。

「喜代美」

 利典の声は、氷のように冷徹だった。彼は脱いだばかりのスーツのジャケットを放り投げ、私の頭にかぶせた。

「こいつは涼子。俺の真実の愛だ」

 私はジャケットを振り払う。涼子の視線が、油汚れのついた私のエプロンをなめるように一瞥し、唇の端を吊り上げた。隠そうともしない嘲笑だ。

「利典、この人があなたの家の……家政婦さん?」

 喉が引きつるように痛い。胃の中では胃酸と、もっと焼けつくような何かが渦巻いている。

 涼子は利典から離れると、オープンキッチンへと足を進めた。彼女の視線が、棚に陳列されたボーンチャイナのコレクションに止まる。

 彼女は私が一番愛用しているカップを手に取ると、勝手に水を半分ほど注ぎ、一口啜った。そして――ふっと手首の力を抜いた。

 パリーンッ。

 床のタイルにカップが叩きつけられ、耳障りな破砕音が響く。

「あらっ」彼女はわざとらしく声を上げた。

「どうしてこんな端っこに置いておくの? 危なくて手元が狂っちゃったじゃない」

 私は呆然と足元の破片を見つめることしかできない。

 屈み込もうとした瞬間、利典に激しく突き飛ばされた。

「何ぼさっとしてるんだ! たかがカップ一つまともに管理できないのか。家でゴロゴロしてるだけの寄生虫のくせに、他に何の能があるんだ?」

 よろめいた私はレンジ台の角に腰を打ちつけ、下腹部に鋭い激痛が走った。

 同時に、無理やり抑え込んでいた吐き気が津波のように喉元までせり上がってくる。

 私は口元を押さえ、転がるように洗面所へと駆け込んだ。便器にしがみつき、激しくえずく。胃が痙攣するばかりで、何も吐き出せない。

 背後からヒールの音がコツコツと近づいてくる。涼子がドア枠に寄りかかり、腕を組んでクスクスと笑っていた。

「利典、ちょっと見て。喜代美さんたら、私に嫉妬しすぎて吐いちゃったみたいよ?」彼女の声は弾んでいる。

「まあ、無理もないわね。今のあなたは成功して、資産だって億を超えてるんだもの。事業を支えられる女こそが相応しいわ。こんな……」

 彼女は言葉を濁したが、その意味するところは残酷なほど明確に空気を淀ませた。

 その時、義母の花美が寝室から出てきた。顔には驚きのかけらもなく、いつもの不機嫌さだけが張り付いている。

 彼女は床の破片を一瞥もしないまま、いきなり私の鼻先を指差した。

「まったく、役立たずが! 一日中辛気臭い顔をして。子供一人産めないくせに、よくもうちの飯が食えるもんだね」

 そして涼子に向き直ると、瞬時に表情を一変させ、愛想笑いすら浮かべた。

「涼子さん、いらっしゃい。あんなのは放っておいてちょうだい。ほら、あなたのような方こそ、良家のお嬢様としての品格があるわ」

 私は冷たい壁に手をつき、ゆっくりと身体を起こした。下腹部の引きつるような痛みはまだ続いている。

「利典……」私は掠れた声で訴えようとした。

「お腹の調子が、悪くて……もしかしたら……」

「調子が悪い?」

 利典が私の言葉を遮った。彼はリビングのソファに深く座り込み、その目には厭悪の色しか浮かんでいない。

「喜代美、その悲劇のヒロインごっこはもううんざりだ。俺がお前を選んだのは、顔がそこそこで、単純で扱いやすそうだったからに過ぎない。だが今は?」彼は私を頭のてっぺんから爪先まで見下した。

「もう見飽きたよ」

 それらの言葉が、氷の針となって突き刺さる。

「お前のような貧乏臭い女といるのは、人生の無駄遣いだ。金もない、コネもない、能もない。足を引っ張ることしかできないゴミじゃないか」

 彼はスーツの内ポケットからキャッシュカードを取り出し、目の前のガラステーブルに放り投げた。

「中には五万円がある。暗証番号はお前の誕生日だ」期限切れの書類でも処理するような平坦な口調だ。

「荷物をまとめて明日出て行け。離婚協議については、後で弁護士から連絡させる」

 私は滲む視界で、そのカードを見つめた。

 たった、五万。

 彼の心の中では、私たち三年の結婚生活も、彼のために明け方まで事業計画書を作った夜も、人脈を使って裏で障害を取り除いたことも、創業時の資金繰りが苦しい時に私蔵の宝石を密かに換金して支えたことも……すべてが、たった五万の価値しかなかったのだ。

 彼と結婚するために、私は「藤原グループ」唯一の継承者という身分を隠し、両親を亡くした高卒の孤独な女を演じてきた。

 画廊の経営も諦め、エプロンをつけ、彼の気難しい味覚に合わせて料理を覚えた。それが純粋な愛だと信じていたから。

 だが今、彼の目に映る私は、ただ処分されるべき「貧乏臭い」ゴミでしかない。

 主寝室のドアが、無慈悲に閉じられた。すぐに中から男女の卑猥な笑い声が漏れてくる。

 私は物置から薄い毛布を引っ張り出し、廊下の突き当たりにある、万年空室の客間へと向かった。

 枕の下に隠してあるスマートフォンに手を伸ばす。それは私が持つ真の身分、かつての世界と繋がるための回線だ。

 指先が冷たい機体に触れた瞬間、私は手を引っ込めた。

 だめだ。今、執事や主治医に連絡すれば、すべてが露見する。それはすなわち、利典との関係が修復不可能になることを意味していた。

 私にはまだ、哀れな幻想が残っていたのだ。

 深夜二時頃、腹痛が激しさを増した。私は足音を忍ばせて階下へ降りた。キッチンで白湯を飲み、常備薬の胃薬を探そうと思ったのだ。

 リビングには薄暗いブラケットライトだけが灯っている。ダイニングの収納棚へ向かおうとした私の視界の端に、ソファの上の光景が飛び込んできた。

 薄闇の中で、二つの影が絡み合っている。

 ソファに深く沈み込んだ利典の膝の上に、涼子が跨っていた。彼女は両腕を彼の首に回し、情熱的に口づけを交わしている。静寂の中に、生々しい水音が響く。

 涼子が唇を離し、利典の頬を指でなぞった。その声は、絞れば水が出るほど甘ったるい。

「利典ん、私、あの女が出て行くまで待てないわ。早くここに住んで、毎日あなたと一緒にいたい」

 利典は低く「ああ」と喉を鳴らした。

「焦るな。すぐだ。あいつの小賢しい計算や手段なんて、俺の前では何の意味もない」

 棚から取り出した胃薬の瓶を握りしめたまま、私は立ち尽くした。胃の痙攣と、胸を引き裂かれるような痛みが混ざり合い、立っているのがやっとだった。

 その時、痛みと混乱で埋もれていたある事実が、突如として脳裏に浮かび上がった。

 生理が、もう二週間以上も遅れている。

 恐ろしくも絶望的な考えが、蔦のように私の心臓に絡みついた。もし、私が妊娠していたら……彼は、少しは優しくしてくれるだろうか?

 たとえ、ほんの少しだけでも。

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