紹介
二年。
神崎家の専属弁護士だった父は、敵対勢力によって口封じのために殺された。母は病床で半年間持ちこたえた末、死の間際に私を神崎龍之介――裏社会を牛耳るマフィアのボス――に託して息を引き取った。
龍之介はその約束を守り、私と結婚した。
龍之介の秘書として二年間を過ごしてきた私には、この書類をどう扱えばいいか痛いほど分かっていた。あとはただ、最後にもう一度だけ、彼からサインをもらうだけでいい
チャプター 1
結衣視点
すでに署名を済ませた離婚届を握りしめ、私は屋敷へと足を踏み入れた。
二年。
神崎家の専属弁護士だった父は、敵対勢力によって口封じのために殺された。母は病床で半年間持ちこたえた末、死の間際に私を神崎龍之介――裏社会を牛耳るマフィアのボス――に託して息を引き取った。
龍之介はその約束を守り、私と結婚した。
龍之介の秘書として二年間を過ごしてきた私には、この書類をどう扱えばいいか痛いほど分かっていた。あとはただ、最後にもう一度だけ、彼からサインをもらうだけでいい。
書斎の扉は少しだけ開いていた。
その隙間から、むせ返るような重く甘いオレンジブロッサムの香りが漂ってくる。
二年前、私がオレンジブロッサムのヘアコンディショナーを使った時、龍之介は有無を言わさぬ口調でこう言い放った。『匂いがきつすぎる。変えろ』
だが今、彼の書斎を満たしているその濃厚なオレンジブロッサムの香り――紗夜の愛用する香水――を気にするどころか、彼は笑い声さえ上げていた。
紗夜が戻ってきて初めて、私は龍之介がどれほど人を大切にできる人間なのかを知った。
紗夜は名門・西園寺家の一人娘であり、龍之介の幼馴染だった。しかし家同士の都合により、彼女は龍之介の弟である健太郎と結婚したのだ。
健太郎が死ぬまでは。
紗夜は「一族の未亡人」として、再びこの屋敷に戻ってきた。
龍之介は自らすべての手配を行った。東館の最も環境の良い、窓から薔薇園を一望できる部屋。いつでも使える専用の車に、二十四時間体制の護衛。彼女の飼い猫にさえ、専属の世話係がつけられた。
彼がここまで細やかに人に気を配れるのだと、私はその時初めて知ったのだ。
その相手が、決して私ではないというだけで。
私は扉を押し開けた。
龍之介は執務机の向こうに座っていた。
紗夜は彼の椅子の肘掛けに寄りかかっている。
彼女の指先は彼の肩に置かれ、慣れた手つきで襟元を直していた。笑いながら小首を傾げる彼女の髪が、彼の首筋をかすめる。
先に私に気づいたのは彼女だった。
「結衣! 今ね、コンサートに行こうって話していたところなの。あなたも一緒にどう?」
「結構です」私は書類を机の上に置いた。
龍之介の視線が、まるで家具でも見るかのように私の上を滑る。
「今日は資料室に行く予定ではなかったか?」
私は財団の書類の束の真ん中に離婚届を忍ばせ、署名ページを開いて彼の方へ押しやった。
「サインが必要な、いつもの決裁書類です」
彼はグラスを置き、紙の端を指で押さえ、わずかに眉をひそめた――
「中身を確認させろ」
心臓が跳ねた。
「いつもの書類です。重要なものではありません」
「龍之介ったら」紗夜が突然笑い声を上げ、さらに彼へと身を乗り出した。
「いつからそんなに慎重になったのよ? 昔、私のラテン語の赤点答案にサインしてくれた時なんか、見向きもしなかったじゃない」
彼の口角がわずかに上がった。
その幼い頃の思い出が、彼の愛情をはっきりと揺り起こしたのだ。彼はそれ以上確認することなくペンを手に取り、自分の名前をサインした。
流れるような筆致で、素早く、そして迷いなく。
彼と紗夜が言葉を交わしている隙に、私はわずかに震える指先で書類を引き寄せた。
紗夜が私をちらりと見て、いつもの親しげな口調で言った。「もう、龍之介ってば。結衣のこと、まるでお使いを頼む秘書みたいに扱ってるんだから。これじゃただの雑用係じゃない。とてもこの屋敷の奥様って感じじゃないわよね」
龍之介は何も答えなかった。まるで何も聞こえなかったかのように。
私は背を向け、その場を離れた。
深く息を吸い込む。
胸の中で張り詰めていた何かが、静かにほどけていくのを感じた。
十七歳の時、私は神崎家の屋敷へと送られた。
当時の龍之介は二十五歳で、一族の事業の大半を引き継いだばかりだった。人を寄せ付けず、畏怖を抱かせるような静けさを纏っていた。
彼は私に仕事を与えてくれた――専属秘書という仕事を。書類を整理し、予定を管理し、会議の議事録を取り、交渉の席では静かに座っていること。
私はすぐに仕事を覚えた。この二年間で、自分は屋敷を動かす歯車の一部になったとさえ感じていた。
結婚の話が出たのは、私が学校に戻って文学を学びたいと口にした後のことだった。
彼の口調には、一切の反論を許さない響きがあった。
『お前には身分が必要だ。一族には安定した体裁が必要となる。結婚は互いにとって利益になる』
私たちにも、優しいと呼べるような瞬間はあった。
結婚して最初の数ヶ月、彼は深夜に帰宅する際、薔薇の花を買ってきてくれた。私がソファで眠り込んでしまった時は、まるで猫を起こさないようにするかのような優しい手つきで、私を寝室まで抱きかかえて運んでくれた。
私が熱を出した時には、一晩中ベッドのそばに付き添い、その冷たい手を私の額に当てていてくれたこともあった。
私は、それが始まりなのだと思っていた。
だが実際には、それがすべてだったのだ。
結婚二周年の記念日。
私は勇気を振り絞り、今まで一度もしたことのない行動に出た。繁華街にあるミシュラン星付きのレストランを予約し、深いブルーのドレスを買い(龍之介が青色を好きだと言っていたのを覚えていたからだ)、午後四時から身支度を始めた。
思ったのだ。今回ばかりは、私から歩み寄れば、彼も私を見てくれるのではないかと。
私は真夜中までレストランで待ち続けた。龍之介は現れず、電話一本かかってこなかった。
翌朝、執事が私の朝食の皿の横に新聞を置いた。社交界ページのトップを飾る写真には、紗夜の肩にコートをかける龍之介の姿が写っていた。
私はその写真を長い間見つめ続けた。
写真の中の龍之介は、私が今まで一度も見たことのない表情を浮かべていた。まるで世界で一番大切なものを見つめるような、一点に向けられた、柔らかく、ひたすらに甘い眼差し。
その夜、私はあの深いブルーのドレスをずたずたに切り裂いた。
その日から、私はここを逃げ出すための計画を立て始めたのだ。
私は廊下の突き当たりに立ち、手元の書類を強く握りしめた。
もう、神崎家の透明人間の妻でいるのはご免だった。紗夜がゆっくりと、本来彼女のものであるはずだったすべての場所を奪っていくのを、ただ見ているのはもう嫌だった。
私は別のことがしたかった――まだそれが何なのかは分からなくても、とにかく何か別のことを。
うつむき、親指でそのサインをそっとなぞる。
インクはすでに乾いていた。
二年。私は彼の秘書であり、妻であり、この屋敷で最も静かな影だった。
けれど今日から、私はただの結衣になる。
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【転生】
再び目を開けると、婚約が公の場で発表されたあの瞬間に戻っていた。
周防文哉が愛おしそうに私を見つめ、優しく囁く。
「俺と結婚してくれ。」
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彼が、私の代わりに答えた。
「――断る」
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「誰が彼女を田舎くさい地味女だと言った? 彼女こそ、俺・諏訪淳行の婚約者だ」
紅蓮が流し目をひとつ送る。
「婚約、破棄しなくていいの?」
「しない」
彼が長いあいだ追い求めてきた決して手の届かない高嶺の花こそが、いま腕のなかにいる婚約者なのだ。
解消などありえない——この婚約は、死んでも解消しない。













