マフィアの夫と、義妹の忠実な子犬

マフィアの夫と、義妹の忠実な子犬

渡り雨 · 完結 · 27.4k 文字

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紹介

かつて私は、東京で最も羨望を集めるマフィアの妻だった。彼の飼い犬であるチベタン・マスティフが、私たちの子の遺骨を飲み込んでしまう、その日までは。

誰もが、あれは事故だったと言った。でも、私には分かっていた。違うと。

なぜなら、私が流産で大出血していた時、夫はVIP病室で、心に「深い傷」を負ったという義理の妹にスープを飲ませて宥めていたのだから。

一族全員が彼女の脆さを不憫に思った。ただ私だけが見ていたのだ。彼女が「パニック発作」を起こすたび、口元に浮かぶ勝ち誇った笑みを。

そして今、公安調査官が私に二つの選択肢を与えた。このまま完璧な「怨み深き妻」を演じ続けるか、それとも、私を知る全ての人間から「死んだことにされる」極秘計画に参加するか。

私はサインし、二人の密会の録音をアップロードした。そして、自分の名前がこの世から消えていくのを見届けた。

「愛しいあなた、一族を守りたいと言ったわね?」

「奇遇だわ。私の新しい仕事も――この国を、あらゆる脅威から守ることなの。」

「あなたも含めてね。」

チャプター 1

 子供の遺体が、あのチベタン・マスティフによって無残な姿に変えられたことを知ってから、私は秋友が嫌悪していたすべての欠点を完全に捨て去った。彼の行方を問い詰めることも、彼の冷淡さに泣き崩れることも、もう二度としない。

 凝固因子欠乏症のせいで、些細な転倒が深刻な内出血を引き起こし、緊急手術が必要になった時でさえ、医師に家族への連絡を促された私は、ただ冷静にこう答えた。

「夫は死にました。私は未亡人です」

 手術が終わり、病室に戻された。麻酔の余韻が残る中、看護師が術後の経過を確認している。

「島谷夫人、手術は成功しましたよ」看護師はカルテをめくりながら、困惑した表情を浮かべた。

「ですが……先ほどご主人は亡くなられたと仰っていましたが、カルテの緊急連絡先には島谷秋友様のお名前があります。それに……彼は今、上の階の精神科にいらっしゃいます」

 そうだった。秋友は最近、毎日のようにこの病院に通っている。私の見舞いではない。義妹である未央奈の心理療法に付き添うためだ。

 あの子の遺体が犬に食われたあの日以来、彼女は「自責の念によるショック」を受けたと言い張り、専門的なケアを求めているのだから。

 看護師は戸惑っているようだった。

「島谷様をお呼びしましょうか? 病院の規定では、ご家族にも手術の状況を説明する必要がありまして……」

「必要ありません」私は目を閉じ、虚弱だが断固とした声で告げた。

「しかし……」

「必要ないと言いました」

 看護師は困り果てた様子だったが、最後には頷いて退室していった。

 十分もしないうちに、病室のドアが乱暴に開け放たれ、ドア枠が震えた。入り口に立つ秋友は、スーツを僅かに乱し、その青い瞳に怒りの炎を宿していた。

「緊急手術だと? なぜ俺に知らせない」彼は大股でベッドサイドに歩み寄り、声を低く唸らせた。

「どれほど心配したと思っているんだ」

 私は彼を一瞥した。

「ただ少し血が出ただけよ。流産した時の十分の一にも満たないわ」

 かつて恋人同士だった頃、私がどれほど甘えん坊だったかを思い出す。薔薇の棘に刺された程度の傷でも、彼の胸に飛び込んで泣きついていたものだ。

 それなのに今、私は大手術を終えたばかりだというのに、眉一つ動かしていない。

 彼の表情を見るに、彼もまた過去を思い出しているに違いない。

 彼が何か言いかけたその時、廊下をストレッチャーが通り過ぎる音と共に、看護助手たちのひそひそ話が聞こえてきた。

「島谷さん、まだいらしたのね」

「毎日あの未央奈様につきっきりよ。心理療法士三人のローテーションに、専用のVIP病室まで用意して」

「なんでも、あのお嬢様、夜に悪夢を見るからって、島谷さんに抱きしめてもらわないと眠れないんですって」

「まあ、二十四時間体制なんて、奥様への看病より熱心だこと……」

 秋友の顔色が一瞬にして曇り、拳が無意識に握りしめられるのが見えた。だが私はただ静かに横たわり、まるで赤の他人の噂話を聞いているかのように振る舞った。

「未央奈は……子供の遺体があんなことになったのを見て精神が崩壊してしまったんだ。放っておくわけにはいかないだろう」彼の声は硬く、まるで自分自身に言い訳をしているようだった。

 私は淡々と彼を見つめた。

「ええ、そうね。彼女はあなたの義妹だもの。家族を守るのは当然よ」

 それはかつて、私の嫉妬を封じ込めるために彼が使っていた言葉そのものだ。今、彼の望み通り、私が嫉妬も関心も捨て去ると、逆に彼の方が居心地悪そうにしている。

 その時、病室のドアが再び開き、秋友の側近である村田が慌ただしく入ってきた。

「ボス、未央奈様が薬をすべて吐き出してしまいました。医師の話では、情緒が不安定すぎて薬が効かないそうです」

「吐いたなら処方し直せ! 栄養士に調整させろ! 俺は医者じゃないんだ、いちいち呼ぶな!」秋友は勢いよく振り返り、怒鳴りつけた。

 村田が退室すると、秋友は深呼吸をしてから、私のベッドの端に腰を下ろした。その動作は慎重で、まるで私が逃げ出すのを恐れているかのようだった。

「すまない。子供の遺体の件……あれは管理不行き届きだった。担当した者は処分した」

 彼は私の手を握りしめた。

「俺たちはまた子供を持てる。約束する、今週はずっとお前のそばにいる」

 私はそっと手を引き抜き、窓の外に視線を逸らした。彼の約束も、その愛も、すべてが遅すぎた。

 秋友が眉をひそめ、何か言おうとした瞬間、廊下から慌ただしい足音と、何かが落ちる音が響いた。

「危ない!」ドアの外でボディガードの声がする。

 未央奈がよろめきながら入り口に現れた。片手でドア枠を掴み、顔色は紙のように白い。一歩踏み出そうとして膝が折れ、彼女は前へと倒れ込んだ。

 秋友は即座に駆け寄り、彼女を受け止めた。

「ベッドにいろと言っただろう」

「栞奈に会いたかったの」未央奈は秋友の腕にしがみつき、声を詰まらせた。

「謝らなきゃ……あなたたちの赤ちゃんを死なせてしまったこと……」

 彼女は秋友の胸に顔を埋め、涙を流した。

「全部私のせいよ……私がボリスをちゃんと見ていれば、赤ちゃんは……」

 以前なら、こんな言葉を聞けば私はヒステリックに叫び、問い詰め、泣き喚いていただろう。だが今は、何の感情も湧いてこない。瞼を持ち上げる気力さえなかった。

「もういい」秋友は震える未央奈を抱きしめ、慈愛に満ちた声で言った。

「お前のせいじゃない。ボリスはただの動物だ……」

「でも、栞奈が……」未央奈は涙に濡れた目で私を見た。

 私は目を閉じたまま、静かに横たわっていた。まるで眠っているかのように。

 秋友の視線が数秒間私に留まり、その瞳に私の理解できない感情がよぎった。彼は声を潜めて言った。

「未央奈を上の階へ送ってくる。すぐに戻るから」

 そして彼は未央奈を抱きかかえ、背を向けて出て行った。

 夜が更け、廊下の足音もまばらになっていく。私は天井を見つめ、遠くから聞こえる救急車のサイレンに耳を傾けていた。深夜になっても、彼が戻ってくることはなかった。

 突然、携帯電話が鳴った。

「島谷夫人、公安調査局の工作員、暁です」受話器の向こうから厳粛な男の声がした。

「生物防衛プロジェクトの件、いかがなさいましたか? これは国家最高機密レベルの案件です。一度参加すれば、数十年は政府の研究所に缶詰めとなり、外界との接触は完全に絶たれます。ご主人でさえも……」

「参加します」私は静かに彼の言葉を遮った。

「離婚申請は済ませました。一週間後の冷却期間が終われば、すぐに出頭します」

 電話の向こうで数秒の沈黙があった。

「島谷夫人、本気……なのですか? NIID(国立感染症研究所)の誰もが知っていますよ。あなたが島谷氏のためにどれほどのチャンスを棒に振ってきたか。本来なら、とっくに生物防衛部の主席研究員になっていたはずなのに……」

 胸の奥がチクリと痛んだ。

 私はいつだって理性的だった。どんな事態にも冷静さと論理で対処できた。けれど、秋友のこととなると、私の理性はいつも音を立てて崩れ去った。

 十年前のハーバード大学時代を思い出す。私たちは誰もが羨むアカデミックなカップルだった。私はいつも学年二位で、一位の彼にはどうしても追いつけなかった。

 大学三年生の時、顔を真っ赤にして彼に告白した。彼は図書館の机に気だるげにもたれかかりながら言った。

「医学部の全額奨学金を取れたら、結婚してやるよ」

 冗談めかした言葉だったけれど、私はそれを真に受けた。

 卒業式のプロポーズは、確かにおとぎ話のようにロマンチックだった。ヘリコプターから撒かれた薔薇の花びらがボストンの街を埋め尽くし、メディアはこぞって「学術界の完璧な結婚式」と書き立てた。

「結婚してくれ、栞奈」彼は片膝をつき、その青い瞳には――私がそう信じていた――深い愛情が宿っていた。

 数年後になってようやく理解したのだ。あのプロポーズのタイミングがあまりにも出来すぎていたことを。それは私が国際生物医学賞を受賞した週だった。私の学術的栄誉は、島谷家のあらゆる醜聞を覆い隠すのに十分だったのだ。

「本当に決心されたのですか? あれほど彼を愛していたのに……」捜査官の声が私を現実に引き戻す。

「もう愛していません」私は彼の言葉を遮った。

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