彼が気づかなかった婚約者

彼が気づかなかった婚約者

渡り雨 · 完結 · 20.7k 文字

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紹介

この五年間、ヤクザの組長である夫は、あの“ぶりっ子”のために、私に九回も指輪を外させた。

最初の結婚の時、彼はこう言った。「今日から、お前は俺の女王で、東京のファーストレディだ」と。

それなのに、志織が泣きながら助けを求めるたび、彼の口調は変わる。「高坂さん(志織)は俺の命の恩人なんだ、萌美。俺はあの一家に借りがある」。

そうして、私は彼の言葉を八回も信じてしまった。

八回、赤の他人を装い、彼が別の女の手を引いて、私たちがよく行ったレストランに出入りするのを見つめた。

八回、組の者の前で「別居」は互いのための冷却期間だと説明した。

八回、あの女が私の寝室に住み着き、私の食器を使い、私のベッドで眠るのを、ただ黙って見ていた。

その結果、彼が繰り返すのは「指輪を外せ」と「指輪をつけろ」という言葉だけ。

そして九回目、彼が彼女のために精子を提供して不妊治療に協力すると言った時、私の方から別れを切り出した。

彼は、これもただ九回目の“一時停止”だと思っていて、一ヶ月もすれば私が大人しく彼の元へ戻ってくると信じきっている。でも、彼が知る由もないだろう。私がもう、ここを去るための航空券を予約したことなど。

チャプター 1

「サインして。志織にはあなたが必要なんでしょう。わかってるわ」

 私は既に署名を済ませた『第九回休戦条項』を、そっと新島充史の目の前に差し出した。

 書斎には時計の針が刻む音だけが響いている。机の上には高坂志織の診断書が広げられていた——卵巣機能の低下、ホルモン値の異常、そして早急な生殖補助医療の推奨。そのレポートの末尾には、赤ペンでこう注釈が添えられている。

『これが患者にとって、妊娠のラストチャンスである』

 充史は明らかに呆気にとられていた。

 無理もない。私が問い詰めることも、喚き散らすことも、物を叩き壊すこともなくこれに応じたのは、今回が初めてだったのだから。

「お前も……ようやく物分かりが良くなったな」

 そう言いながらペンを受け取る彼の手は、しかしどこか躊躇っていた。

 私は彼がうつむいて署名する様子を見つめていた。まるで月々の請求書を処理するかのような手慣れた動作。だが、見ていればわかる。今回ばかりはいつもと違う。その眉間の皺は深く刻まれ、何かを天秤にかけているようだった。

 この五年間、志織への過度な肩入れを私が疑うたび、彼は決まってあの決まり文句を持ち出した。「俺は高坂家に恩があるんだ」と。

 そして今、その『恩』が彼に求めている対価は、子供だった。

 書類を閉じると、充史はこれまでに八回繰り返してきた台詞を癖のように口にした。

「一ヶ月だ。志織の治療が成功すれば、また盟約に戻る。その時は俺の手で、お前の指に結婚指輪を戻してやる」

 以前の私なら、詳細を追及し、保証を求め、念書まで書かせていたことだろう。

 けれど今回は、心の凪があまりにも深く、言い返す気力さえ湧いてこなかった。

「萌美」

 彼は語気を強めた。

「俺の話を聞いているのか?」

 私はただ視線を伏せ、書類にある自分の署名を眺めたまま答えた。

「ええ、聞いてるわ」

 充史が盟約を戻すと言えば、必ずそうなる。東京の裏社会において、彼の言葉は法そのものだからだ。

 私たちの結婚は、そもそも夫婦関係というより、二大組織が交わしたビジネス上の契約に近かった。ただ、この契約には一つの例外条項が存在する——志織に関わる事態が発生した場合、一時的に執行を停止できる、というものだ。

 五年間で、私は八回の『休戦』に署名し、彼が彼女を『救済』する様を八回目撃してきた。

 盟約を結んだあの日、彼は私の手を握りしめてこう言ったのを覚えている。

「盟約期間中、俺は君だけのものだ」

 確かに、彼はそれを守り通している。

 休戦期間中であれば、彼が誰といようと裏切りにはならない。そして私は、いつでも都合よく『一時停止』される妻に過ぎないのだ。

 ウォークインクローゼットを開ける。荷造りはとうに済ませてある。いつでも出て行けるように。

 私がスーツケースを確認する様子を見て、充史の表情が奇妙に歪んだ。前回、私はここで鏡を一面粉々に叩き割り、その破片が彼の肩に突き刺さった。前々回はシーツに火を放ち、屋敷全体を燃やしかけたこともある。

 だが今回は、ただ静かにファスナーを閉めただけだった。

「それとも……今回は俺が都心のマンションに移ろうか? お前はここに残ればいい」

 探るような声色だった。

 彼が何を待っているのかはわかっていた。私の顔を覗き込み、感情の揺らぎ——怒りでも、悲嘆でもいい——を捉えようとしているのだ。この死のような静寂よりはマシだから。

 私は顔も上げずに答えた。

「いいえ。数日、美穂の別荘に行くから」

 『美穂』という名を聞いた瞬間、充史の表情が陰った。

「また妹のところか?」

 彼は一歩踏み出し、声を潜めつつも鋭く言い放つ。

「前回みたいに、志織にワインをぶっかけろとでも唆すつもりか? それとも前々回のように、俺たちを尾行させて『証拠』写真を撮らせる気か?」

 私は荷物の整理を続け、何も答えなかった。

 だが、彼は止まらない。

「萌美、お前も自分の人生を持ったらどうだ? この五年間、お前の生きる意味といえば俺を監視し、志織を陥れ、俺と周囲の人間を引き裂くことだけじゃないか」

 そのあまりに堂々とした態度を見て、私は彼が苛立ち紛れに放った非難の裏にある本音を瞬時に悟った——『俺と志織に近づくな』ということだ。

 彼はただ、邪魔されたくないのだ。

 この一ヶ月、志織の治療に専念するために、私という『一時停止中の妻』に場を荒らされたくないだけ。

 もっとも今回に限っては、充史のその懸念はまったくの杞憂に過ぎないのだけれど。

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