エラがエラでなくなった時

エラがエラでなくなった時

大宮西幸 · 完結 · 22.0k 文字

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紹介

セバスチャンが死んだ。
そして私、彼の妻が、真っ先に疑われた。

友人のルーシーだけが頼りだと思っていたのに、彼女の目はいつも動揺を隠している。クローゼットに突然現れた黒いストッキング、手首に浮かぶ不可解な赤い痕、携帯に残る私が送った覚えのないメッセージ……

増え続ける疑惑が、蔦のように私の喉を締めつける。

記憶が失われ始めた。断片的な悪夢が何度も繰り返される。見知らぬ香水の匂い、冷たい罵声、そして「リア」という名前が、頭から離れない。

誰が嘘をついているのか?誰がすべてを操っているのか?

現実と幻覚の区別がつかない。ただ一つわかるのは、周りの人間が皆、仮面を被っているということ。

そして私は、真相に呑み込まれる前に、闇に潜むその人物を見つけ出さなければならない。

チャプター 1

「エラ・ホワイト? 市警のマーカス・ロッシ刑事だ」

 心臓が鷲掴みにされたように痛み、指先から一瞬で血の気が引いていく。真夜中にかかってくる警察からの電話。ろくな知らせであるはずがない。

 私は受話器を握りしめ、震えを抑えきれない声で答えた。

「……私ですが。何かあったんですか」

「セバスチャン・コールはあんたの夫だな? 彼は死んだ」

 ロッシの声には、何の感情も込められていなかった。

「彼が所有する埠頭の倉庫で発見された時には、もう息絶えていた。事情聴取を行う。すぐに来てくれ」

 それから先の言葉は、右から左へと抜けていった。受話器の奥で鳴る無機質な電子ノイズと、窓を叩く雨音が混じり合い、頭の中で炸裂して痛い。

 セバスチャンが、死んだ?

 立ち尽くす私を、電話の向こうでロッシが繰り返し呼んでいる。ようやく喉からひきつった嗚咽を絞り出し、私は乱暴に電話を切った。

 コートをひっ掴んで羽織り、傘を片手に外へと飛び出す。頭の中はぐちゃぐちゃだ。脳裏に焼き付いて離れないのは、セバスチャンの顔——私を機嫌取りする時の笑顔、罵る時の酷薄さ、一生飼い殺しにしてやると言わんばかりのあの目。それらが絡みつき、息ができない。

 埠頭にはすでに規制線が張られていた。赤と青の回転灯が雨飛沫の中で激しく明滅し、濡れた路面を毒々しく照らし出している。

 駆け寄ろうとして警官に制止された。泣きじゃくりながら名を告げると、彼は渋々といった様子でテープを持ち上げ、私を通した。

 倉庫の入り口に、ダークカラーのトレンチコートを着た男が佇んでいる。紫煙を吐き出すそばから、雨がそれを叩き消していく。振り返ったその眼光は、ナイフのように鋭利だった。聞かずともわかる、彼がロッシ刑事だ。

「ホワイトさん。正気ですか」

 彼はタバコをもみ消す。声色は電話の時より幾分マシだったが、獲物を値踏みするような視線は微塵も緩んでいない。

 私は首を振り、倉庫の扉を睨みつけて飛び込もうとした。だが、太い腕に阻まれる。

「中は見ない方がいい。ここで話そう」

 彼は懐から警察手帳とペンを取り出した。

「今夜の八時から十時、どこで何をしていた?」

「家で……生徒の作文を添削しながら、あの人の帰りを待っていました」

 必死に声を絞り出すが、言葉が途切れ途切れになる。

「倉庫の在庫整理に行くとは聞いていましたが、何時に戻るとは……」

「裏付けは取れるか?」

「私一人でした」

 言葉に詰まる。頭が痺れてうまく回らない。

「ルーシーが……午後に来てくれましたが、六時頃には帰りました」

 ロッシが手帳に書き込む。ペン先が紙を走る音が、雨音の中でもやけに耳についた。

「なぜ奴はこんな深夜に倉庫へ? 誰と会う予定だった?」

「わかりません……っ」

 唇を噛み締めると、堪えていた涙が溢れ出した。

「あの人は、決して私に仕事の話をしませんでした。ただ、どうしても今夜中に片付けなきゃいけない荷がある、とだけ」

 その時、慌ただしい足音が近づいてきた。ピンク色の傘を差したルーシーだ。私を見つけるなり飛びつくように抱きしめてくる。肋骨がきしむほどの強さだった。

「エラ! 知らせを聞いてすぐに飛んできたの。ごめんなさい、遅くなって!」

 彼女は泣きじゃくりながら、心底痛ましそうな声を上げる。

「もう大丈夫、私がついてるから」

 私は彼女の胸に顔を埋め、子供のように泣き崩れた。ハーパー・ポートにおける唯一の友人。私のたった一つの拠り所。彼女は私の背中を優しく撫でさする。

「グリーンさん」

 ロッシの事務的な声が、私たちの時間を断ち切った。

「今夜の六時以降、どこにいた?」

 ルーシーは私の肩を抱いたまま振り返る。その表情には悲嘆と憤怒が入り混じっていた。

「家に帰ったわよ! エラと別れて直行したわ。アパートの隣人が証言してくれるはずよ。一体誰がセバスチャンを? あんまりだわ!」

 ロッシは答えず、ただ短く頷いた。それからセバスチャンの交友関係についていくつか矢を継ぎ早に質問してきたが、私は首を横に振ることしかできなかった。

 私は彼の世界など何一つ知らない。友人も、顧客も、一度だって紹介されたことはない。ただ家で待っていることだけを強要されていたのだから。

 解放されたのは午前一時を回ってからだった。

 今にも崩れ落ちそうな私をルーシーが支え、タクシーを拾ってアパートまで連れ帰ってくれた。ドアを開ける。部屋は私が出た時のまま時を止めている。だが、いつもなら遅くに帰ってくるはずの主は、もう二度と戻らない。

 ルーシーは白湯を用意し、バスルームにお湯を張ってくれた。

「まずはお風呂に入って、少し眠りなさい。天が崩れたって私が支えてあげるから」

 ベッドサイドに腰掛け、私の手を握る彼女の瞳は、とろけるほどに優しかった。

 私は操り人形のように頷き、バスルームへ向かった。熱い湯が体を包み、凍えた皮膚を溶かしていく。けれど、胸の奥に突き刺さった氷柱は微動だにしない。

 瞼を閉じれば、セバスチャンの死に顔と、ロッシの冷徹な眼差しが交互に明滅する。この悪夢がいつ終わるのか、誰が彼を殺したのか、何もかもが闇の中だ。

 風呂上がり、着替えようとクローゼットの引き出しを開けた時だ。

 私の質素な綿の靴下の横に、場違いな黒いストッキングが鎮座していた。

 私のものではない。あんなものは履かない。ましてや、あんなに透けるほど薄く、扇情的な黒など。

 指先で触れてみる。冷たく、滑らかな感触。その瞬間、頭を殴られたような激痛が走り、胃の中身が逆流しそうになった。

 視界にノイズが走る——薄暗い照明、鼻をつく香水の匂い、そして耳元で罵るセバスチャンの氷のような声。全身の震えが止まらず、私はその場に崩れ落ちそうになった。

「エラ? どうしたの?」

 異変を察したルーシーが飛び込んでくる。幽霊でも見たように蒼白な私と、引き出しの中の黒い塊。彼女の視線が一瞬——本当に錯覚かと思うほどの速さで——泳いだのを、私は見逃さなかった。

「……これ、誰の?」

 指差す指が震える。声は枯れ果てていた。

 ルーシーは歩み寄ると、大仰に手を打ってストッキングをひったくった。

「あら、やだ! 私のよ。この前泊まった時に忘れていっちゃったのね。失くしたと思ってたわ」

 彼女は手早くそれを自分のバッグに押し込み、引き出しをパタンと閉めた。

「さあ、着替えてもう寝ましょ。変なこと考えないで。私がついてるんだから」

 彼女の背中を見つめながら、胸のざわめきが急速に冷たい疑念へと変わっていく。

 ルーシーだって、あんなものは好まない。彼女はいつだって淡い色のコットンソックスしか履かないはずだ。それに、彼女が最後に泊まりに来たのは一ヶ月も前のこと。今になって、急に見つけたとでも言うのだろうか?

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